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『崖の上のポニョ』 宮崎駿 [映画]

とんでもない雷雨と豪風が町を襲った次の日、『崖の上のポニョ』を観に行ってきた。なんともタイムリー?
話の筋とはまったく関係なく、見ていてじーんとして泣きそうになってしまった場面がいくつもあった。べつに感動的な場面ではないのだが。しかし、うごめくあの濃い画面に圧倒されながら、心の琴線(べたな表現ですが)をぶちぶちぶちぶち、と切断するそうした瞬間があった。(触れるんじゃなくて、切断。突き破られる感覚)
宮崎駿は進化している。前2作での成果の手応えを感じながら、ますます自在にアニメーションを生み出していく。あの濃い画面を全編に渡って動かすために必要なシンプルな物語。想像力の海。
そうだ、これすべて海なのだ。海からまとまった形を作ろうとすれば水を器に入れるしかない。しかし今回は海は海のままだ。
人工も自然も飲み込みながら、海は流れ、たゆたい、静まる。地形に応じて流れ込み、こぼれ、破壊する。あるいはさあっと引いていく。
月は地球に近づき、人間たちは寄り添い集まる。自然も人工もひっくるめたある法則のもとに。それは重力や温度や磁力や電波など目に見えないものが従う法則に近い。
その法則の禁忌を突き破って、魚と半魚人と人間の境目は曖昧になっていく。異なる世界の法則(こちらに顕現する時には魔法)がこちらの世界に浸透してくる。時間も空間もごちゃまぜ、あべこべにしながら。結果が過程を変えてしまう。
老女たちを立たせ、歩かせ、走らせるために町は海に沈まなければならなかった。母親たちや子供たちを歩けなくさせ、山の上や崖の上に取り残させるために。

ポニョは自分の意志で人間になろうとし、手足を出して走り回る。
宗介は崖の上と下を行ったり来たりする。老人と幼児の間も行ったり来たり。母親と父親の間も。
リサは車で疾走する。耕一は船で働く。動くこと、人間が生きて動いていくということ。
対照的に人々の心は一途に動かない。心は空気の海の底に生きる人間にとって重りであり、錨であり、その場に留まるための中心である。世界の変容に伴って、少しずつ揺れ動いたりもするが、その空間に落ち着くための切っても切れないものである。
ポニョと宗介の心は、海辺で出会い、大波にさらわれて大きく動き、そして離ればなれになるが、引き合う力を得て再び出会う。心を動かすということはかように世界を変容させ周囲に影響を及ぼす。その渦の中心にあるのは約束と確信だ。

などと、ごたくを述べようと思えばたくさんできる気がする。が、ごたくを述べないでわからないままにしておくのもまた一興である気がしている。豊穣な映像に身を委ねるだけでも目は快楽を享受している。これは絵が動くことへの感嘆と初々しい驚きを呼び起こし、その愉悦をまざまざと見せつける映画だ。

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