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『PLUTO』地上最大のロボットより(原作 手塚治虫) 浦沢直樹 [漫画]


PLUTO 8 (ビッグコミックス)

PLUTO 8 (ビッグコミックス)

  • 作者: 浦沢 直樹・手塚 治虫
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2009/06/30
  • メディア: コミック



来日したメビウス氏を招いてのシンポジウムで、浦沢氏がメビウス氏に対する憧れの気持ちや「僕が行き着きたいものはこれだ!」という思いの丈を語っていた。浦沢氏が熱く語る気持ちはよく分かる。私もメビウスの絵に痺れて同じ憧れを抱いたし、やはり「僕が描きたいものはこれだ!」とかつて感じたものだ(でも描けずに終わる)。
浦沢氏が鉄腕アトムをリメイクするらしい、と聞いた時は正直いってあまり期待しなかった。ところが、ベースになるのが「地上最大のロボット」であると聞いた時にはとても興奮したし、同時にものすごい嫉妬を感じた。いやだって「地上最大のロボット」だよ?しかも浦沢氏はこれをアトムのエピソードの中で最も好きなものであり、これを読んで漫画家になろうと思った、などというのである。むろん、私だって「地上最大のロボット」がアトムの中で一番好きだったし、どれかリメイクして良いといわれれば必ずこれを挙げると思う。だから「ずるーい!」という気持ちでいっぱいになったわけだ。
ここで私がいいたいのは、あの浦沢直樹と考えることが一緒だ、などというくだらないことでは勿論なくて、同じように考えている漫画読者はごまんといるだろうな、という当たり前の事実である。そしてそのごまんといる人々は絶対に他人のリメイクを許容しないだろうということも。だって手塚を超えられるわけがないんだから。正確に言おう。超えられるなんて考えられないからだ。それは奇しくも浦沢氏がメビウス氏に対して「(メビウス氏がいる限り同じようなものを)僕が描く必要がない」と発言したのと同じ理由による。
しかし、浦沢直樹は健闘した。オマージュを捧げリスペクトしつつも、決しておもねらないスリリングな漫画を僕らに読ませてくれた。『PLUTO』は素晴らしい漫画だと思う。完結したので改めて一気読みしたら、やはり凄かった。その気持ちには一点の曇りもない。「地上最大のロボット」というモチーフを得て、浦沢漫画の最良の部分が生み出されたともいえよう。

だが、やはりわずかな不満は残る。これはもう仕方がないことだと思う。誰が何をやっても必ず文句は出る。諦めて戯言だと思ってほしい。私が抱いたのは一つだけだ。それも特殊な個人の好みの話だ。つまりロボットの破壊場面である。
手塚版「地上最大のロボット」で何が一番魅力的だったかといえば、世界最強を自認する各国ロボットたちがプルートゥによって見るも無惨な粉々の姿に破壊される場面にあった。俺こそが世界一だと自信過剰ぎみなロボットが一撃で粉砕されてしまう。そしてその場面を惜し気もなく描いたのが手塚だった。以前も書いたが、私は手塚漫画の中で何かが破壊される場面でどうしてもエロティックな印象を受けてしまう。手塚が意外にも機械音痴だった、機械が描けていないというのは有名な話だが、死ぬ寸前まで自分が破壊されるはずがないと考えている7体の最強ロボットが一コマでバラバラにされてしまう場面の魅力は筆舌に尽くしがたい。一言でいえばナンセンスさだ。途方もないくらいの無意味さがあるのだ。
特にゲジヒトだ。特殊なゼロニウム合金の体を持ち電磁波攻撃にびくともしない彼が笑いながらまっぷたつにされるのが7体の中で一番記憶に残る最高の場面だった。だから浦沢版でゲジヒトを主役に据えたのはものすごく真っ当だと思う。
とにかく手塚版で魅力的だった破壊場面を浦沢版でどのように描くのか、というのは私の一番期待していたところだった。しかし冒頭のモンブランに始まって、ノース2号、ブランドーまで来て、私はあれ?と思った。どうも直接的な破壊場面をあえて避けているように感じたからだ(とはいえ非常に浦沢漫画的演出なのだが)。ヘラクレスはどうだ、と思ったがヘラクレスにもなかった。なもので私はこう考えた。そうか、これはきっと最後の最後、クライマックスあたりでプルートゥの回想でその直接的な破壊場面を描き尽くす演出の伏線なんだな、と。そう考えるとすべてつじつまが合うので、私はひたすらそれを楽しみに連載を追っていた。ところがエプシロンの破壊場面は、控えめだがその控えめなところが身震いするほど残酷な描写となっていて素晴らしかった。あれ?エプシロンは描いちゃうの?その後はみなさんご承知の通りの展開で結末へなだれ込む。結局ロボットの破壊回想場面はなかった。
浦沢直樹(と長崎尚志)は手塚版のボラーの謎をお得意のサスペンス仕立てに深化させて一流のドラマにした。そもそも手塚にとって謎とき自体の思想が後付けのものでしかないように思える。そこを逆手に得意分野に持ってきたのだろう。そして破壊場面は「同じ方向性ならば僕が描く必要がない」と思って控えたのだろうか。でも私は浦沢直樹の破壊場面を見てみたかった。それは浦沢がたぶん最も描き辛いものだろうからこそ、見てみたかった。それだけだ。

この漫画は予想以上に原作に忠実なつくりになっており、いくらかの肉付けと設定の現代化を図っているが極端な逸脱が無いので原作愛読者にとっても反発を感じる部分はほとんどない。手塚の作り上げた世界を結末を思想を、ある程度まで精緻化させ理屈を付け今この時点でのありうべき未来像としてリニューアルさせることにかなり成功している。
手塚版の自信過剰な力自慢のロボットたちと違い、浦沢版のロボットたちは皆どこか戦うことに哀しみを抱いて飛び立っていき、そして散っていった。まるで最初から死ぬことを知っていたかのように。それはすなわち何のために戦うのか分からないが戦わなければならないことを悟った者の哀しみだ。世界あるいは自分の国のために大きな戦争に参加して、結果大きなトラウマを抱えた彼らが再び戦争に赴く時にその拠り所となるのは自分達の小さな家族だけだった。そしてその戦う相手もまた大きな偏った悲しみという大義名分を抱えていたのが明らかにされる。しかしその大義名分は空虚なもの、人工的に注入された怒りであった。繰り返される怒りと悲しみの負の連鎖に翻弄され続けるこの世界において注入される偏った悲しみと怒り。それを自覚した上で疑問と哀しみを抱きながらも戦う者もいる。ちっぽけだが守るべきもののために大きなものを背負わされた者たちだ。それがロボットに託されているというこの漫画の隠喩の真の意味を私はもう一度考えてみようと思う。
その無意味さの象徴としてやはり破壊場面を見たかった、というのは高望みだろうか。

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