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『バットマン・ビギンズ』『ダークナイト』クリストファー・ノーラン [映画]

さてさて。我が家にPS3がやってきたので、ブルーレイも観られるようになった。そこで前もって購入してあった『ダークナイト』をそのこけら落としにしたのであった。

バットマン ビギンズ [DVD]

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まずは『ビギンズ』をおさらい。
バットマンはなぜゴッサムシティの治安を守り続けるのか?
バットマンはなぜ最新の科学兵器を駆使するのか?
バットマンはなぜそもそもコウモリなのか?
漫画の世界とくにアメコミヒーローにとってこれらの「なぜ?」はとるにたらない疑問である。
ブルース・ウェインは両親を街に巣食う悪党に惨殺されたから悪と戦うのである。
ブルース・ウェインはお金持ちの御曹子だからさまざまな兵器を開発し実用化できるのである。
ブルース・ウェインはコウモリにトラウマがあるからこそそれを克服し己の力の象徴としたのである。
これだけで十分な説明になる。
しかしこれを現実世界に置き換える時には、さまざまな嘘臭さを乗り越えなければならなかった。
両親を殺された人間が悪と直接戦うなどということはほとんど無い。
いくらお金持ちだろうと兵器を開発する技術も知識も無い。
コウモリに至ってはおふざけにしか思えない。まともじゃない。
ノーランの『ビギンズ』ではこうした、バットマンに関する「なぜ?」に逐一回答を与えていた。ウェイン産業の応用科学部から洞窟の歴史的な由来まで事細かにそれなりの理屈によって「ありそう」な水準で設定を作り込んできたのである。
さらにブルース・ウェインという人間が形成されるまでのパーソナルヒストリーをもほぼ物語の大半を費やしてコンパクトに語っている。それは漫画のページをパラパラめくって読み進める感じにも似て、ブルースがどのように人間離れした身体能力と精神力を鍛えたのか、あるいはコウモリの恐怖をどのように克服したのかが切れの良い回想で語られる。そしてこれらの条件が整った時に初めて荒廃し堕落したゴッサムシティを救うためにバットマンという恐怖の象徴が生きてくることが、何重もの納得の上で観客に明らかにされるのである。
それからブルースは夢の実現に向かってアルフレッドやフォックスらの助けを得ながら、一人作業を黙々と行うのであった。ティム・バートンのバットマンの時も思ったが、この何不自由ないお坊ちゃまがしこしこと作業をする姿は途方もなく寂しい。寂しさと同時に私が思い出すのは子供の頃に遊んだ秘密基地のことだ。すべての少年に共通するこの秘密基地への憧憬がこの作業風景に凝縮されている。秘密の基地で悪と戦うために秘密兵器を作って準備している、このみじめで寂しげで、とても楽しげな場面。
そういうわけで『ビギンズ』は新シリーズの設定紹介と、そこから派生した事件の収束までを描いて終わることになる。この事件がまたアメコミ的(パルプSFちっく)なもので微笑ましい。水道に混ぜた毒ガス液をマイクロ波放射器で気化させて街中を混乱させるって、いつの時代の悪だくみなのか。いや好きだけどこういうの。
バットモービルにもバットシグナルにもやっぱりそれなりの存在意義が用意してあって不自然さを感じさせない。この映画の中で唯一不自然さを感じるのは、そのあまりにも理詰めな理路整然としすぎた過剰な世界観のありようだ。何もかも辻褄が合い、何もかも矛盾が生じないこの世界では、当然バットマンが夜を跋扈しようがビルの屋上をモービルが疾走しようがおかしくない。頭では分かるのだが、どこかで違和感があるのだ。たとえ理路整然としていてもおかしなものはおかしいのではないのか?と。
唯一ゴッサムのゴッサムらしさを体現していたモノレールーー貧富の別なく使われる均衡の象徴としてのモノレールは、その世界のありようからはみだしたことによって最後に破壊されてしまったとしか思えない。つまりそれは破壊と混乱の災厄がこれからこの街に降り掛かるという予見なのである。従って次作には出てこない。
その災厄とはいうまでもなくジョーカーだ。

ダークナイト [Blu-ray]

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そして『ダークナイト』だ。IMAX用カメラで撮った画面がブルーレイで最高解像度を達成するというのに意味もなくわくわくした。画面すれすれまで近寄ってまじまじ見てしまった。き、綺麗だわ。
その綺麗な画面でこの超極悪な『ダークナイト』を見る幸せ。
冒頭からノンストップ。小悪党から大悪党まで入り乱れる。かと思えばはた迷惑な偽物バットマンや小悪党に成り下がったスケアクロウが小競り合い。バットマンが登場し建物を破壊して去っていく。ここまで善良な人々がいっさい出てこない。善良って何、といわんばかりだ。そこに光の騎士が登場し悪党たちを一網打尽にしようと試みる。バットマンも香港まで飛んで悪党を引っ張ってくるいつもの強引な手腕を振るう。実は新しい機械を試したかっただけなのでは、という疑惑。フォックスの狸ぶりも見ていて痛快である。
ところで前作に比べてクリスチャン・ベールの顔が悪人顔になったのではないか。何かこう、ダークサイドに堕ちたような険しさが感じられたのは気のせいだろうか。
前作で抱いた疑問ーー理路整然としていてもおかしなものはおかしいのではないか?という問いを、あたかも「その疑問は織り込み済みだ」とせせら笑うかのようにバットマンのレゾンデートルを脅かすジョーカーが鮮やかに登場する。とたんに世界は混沌と化す。ジョーカーの言の葉が織り成すあやうい空間に変化してしまうのであった。
かつてジャック・ニコルソンが演じたジョーカーのトリックスターぶりは最高だった。世界をおちょくり莫迦にしてけむに巻く。無邪気さのお化けだった。手のつけられない強大な力を持った幼稚な心。それはティム・バートンが作り上げた架空の都市ゴッサムシティにおいては無敵のパワーを誇っていた。当事者からしてみれば相手にしたくはないが、傍観するならこれほど面白い怪人もいない。
だがヒース・レジャーのジョーカーは傍観者にとっても相手にしたくない奴だった。(全くの余談だけどヒース・レジャーの英語の記事をネット上で訳したページを見るとledgerが「総勘定元帳」と訳されてしまうのはどうにかならないのか。)
以前のジョーカーを例えていうなら舞台上で(脚本どおり)ハチャメチャをやらかすヤンチャ野郎(の役)だとするならば、今回のジョーカーは客席まで飛び込んで(アドリブで)やりたい放題し尽くすのっぴきならないアナーキー野郎(ガチ)である。
彼の悪意はバットマンやゴッサムシティの住民たちのみに向けられているのではない。私たちにもその切っ先を喉元に突き付けているのだ。いや悪意じゃないな、彼の言葉は隠蔽されているある種の真実をえげつなく差し出しているのだ。それも究極の二択として。ジョーカーは常に二択を迫る。俺と組むのかバットマンにやられるのか、マスクを脱ぐのか市民を殺されるのか、恋人を助けるのか光の騎士を助けるのか、起爆装置を押して助かるか押されて死ぬか、悪に堕ちるのか正義を貫くのか。
トゥーフェイスのコインとジョーカーの二択は実は表裏一体だったのかもしれない。コインで決める行為は運で左右されるのではなく、実際はその行為自体が誰かに選択を委ねてしまうことに他ならないと暗に示している。ジョーカーはその上をいった。誰かが正しい選択をしてくれると人には思い込ませつつ、その実すべてはジョーカーの掌で弄ばれたのだ。
悲劇はジョーカーが直接下さないところで起きた。ジョーカーは悲劇への起爆装置を作ってその辺に置いておいただけだった。押したのは他の誰かだったのだ。だからこそ、最後に自分の手で爆破を試みた時には失敗することが運命づけられていたともいえる。
愚かさだ。ジョーカーは他人の愚かさを溺愛している。自分の存在意義を逡巡していたバットマンはそこにつけ込まれた。最愛の人間を永遠に失った。
だからバットマンは謎の自警団から犬に追われるならず者への転落を選んだのだ。ジョーカー不在の闇を一手に引き受けて、より深い闇へと消えていったのだ。

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