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『96時間』 ピエール・モレル [映画]


96時間 [DVD]

96時間 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: DVD



この映画を見始めてしばらくの間、私はずっと恐怖を感じていた。
だがその恐怖は、人身売買組織のあまりにも手際の良いシステマティックな手口や廃人となった娘たちの姿に感じたものでも、リーアム父さんがバッタバッタと敵をなぎ倒していく鬼気迫る姿に感じたものでもない。
つまり、これが全部リーアム父さんの妄想なのではないか、映画のラストでリーアム父さんがこの妄想から目覚めてしまうのではないか、という恐怖だ。目覚めて冴えない現実に戻されてしまうのではないか、という。
それほどまでに、この物語は「娘を持つ父親」の描く妄想の型に忠実だった。残念ながら「娘を持つ父親」は多かれ少なかれこのような妄想に溺れているものだ。
自分の娘が外で遊んでいてボールを追って道路に飛び出したら自動車に轢かれやしないか、娘が歩道を歩いている時に居眠り運転のトラックが突っ込んできやしないか、娘が通う学校に凶器を持った変質者が乱入してきて被害に遭わないか。
これがエスカレートすると、娘が地震や雷や火事などの災害に遭遇した時に守ってやれるか、娘と自分が飛行機に乗っている時にハイジャックされたらどうするか、娘が誘拐されて身代金を要求されて通報したら命はないと脅されたらどうするか、娘が崖から落ちそうになった所を手をつかんで引っぱりあげられるだろうか、娘が宇宙からやってきた異星人のUFOに浚われたらどうやって救出しようか、などと考えはじめる。ほとんど妄想の世界だ。
そして最も肝心なところだが、このシミュレーションの中では父親は必ず娘を助け出すものと決まっているのである。そこまで保証されるからこそ安心して妄想に浸ることができるのである。「娘を持つ父親」という人種はそういうものである。リーアム父さんのいささか神経質にも思える心配性はごく当たり前のことであり、決してうざったいものやしつこいものや愛情の押しつけなどといった「キモい」ものでは断じてないのである。
それでいくと、この映画はいわば「娘が初めての海外旅行で人身売買組織に浚われ、4日以内に助けないと永遠に戻ってこない」という難易度の高い設定を妄想しているともいえる。彼が無敵なのも、さしあたって全て妄想だと思えば不思議なことはない。
まず娘の歌手という夢を「自分だけがそれを理解し協力している」という風に思い込むリーアム父さんが痛すぎ切なすぎ涙なしには見られない。女性歌手のガードを引受けるのも娘に尊敬されたい一心でしかない。彼にとって冷静な分析と予測はお手のものだ。仕事の前日には様々なシミュレーションをし終えていたと思われる。暴漢に襲われそうになるところを助けてそのお礼をされるのも、きっと想定の範囲内だったのだろう。成功者にアドバイスを求めるのも予定どおりの行動だったに違いない。そして旅行に行くという話を聞いた瞬間に断固拒否しつつも、すでに彼の脳裏にはありとあらゆるシナリオが浮かび、いかなる状況にも対処できるようなシミュレーションが行われていたに違いない。だからあれほどまでに迅速に冷静に娘へ指示を送れたのだ。
こうして私は冒頭20分の時点で恐怖を感じつつも、すでに彼の友人になれると思い込んだ。
元妻は「彼女を自由にさせないと離れていってしまう」などとしたり顔で彼をたしなめる。反論できずにいたリーアム父さんは、しかしやがて、俺のいうことが一番正しく娘への愛も本物なのだ、といわんばかりの救出劇を繰り広げる。娘の命を脅かす者はたとえどんな理由であろうと倒すほかはない。それを潔さというのは少々はばかられるが、父親が娘を助けるのは正義でも理屈でも見返りを期待するのでも何でもない。それは至極当たり前のことなのだ、と戦う彼の姿が表明している。だからそれを邪魔する者は等しく娘を殺そうとする者なのだ、と。昔の友人?の妻?ーーむしろ子供に手をかけなかったのは彼の信念だと思うべきだろう。ビジネス?交渉?ーー「だが容赦はしない」、ズドン、である。かっちょええ。
世界中に溢れかえっている「間に合わなかったもの」「手遅れだったもの」「もう届かないもの」の哀しみを一身に背負い、全てを間に合わせ、引きずり戻し、救い出す。リーアム父さんがやったことはそれだけだ。たったそれだけのことが今この世界にはこれほどまでに足りていないのだろうか。
「お父さんは心配症」といえばそのとおりだ。電気屋に20回も通って吟味した誕生日プレゼントのカラオケセットを買うところから、彼の無限大の心配はすでに炸裂している。神経質なほど娘に電話連絡を強要するのもそうだし、組織の手に落ちる寸前のいたって冷静な指示も同じ水準にある。表面が異なるだけで、リーアム父さんのテンションはほぼ変わらずハイに保たれている。心配症も暴力も等しくハイテンション。そして娘が素で、つまり父さんがいない場所で「父さんに言ってない」と友人に訴える場面こそが、それまでの父の独善的だったハイテンションが観客のものとして共有された瞬間である。ハートがズキュウウウウウン、なのである。それでみんながみんな、そろいもそろって怒濤の救出劇へと出発したのである。
だからこそ私は最後に歌手の名刺を父さんがその手で破り捨ててしまうものだと予想していた。しかし、その予想は見事に外れた。最後に名刺を破り捨てることで「まともな」現実に回帰させるだろうという私の浅はかな予測は外れた。それどころか危険が満載で苦しみの多いはずの歌手の道へと娘を導いてしまった。なぜか?
これを単純にやっぱり親バカだった、というのは容易い。娘の本気だって疑わしいものだからだ。しかし彼が名実ともに娘の父親だった時代が彼にとっての真実の時であったとすれば(自分の仕事は秘密だったのに)、その頃の娘の夢こそが彼にとって本当の夢に他ならないのである。その夢を叶えてあげることが彼の望みだった。それだけだ。
「娘だけいればいい」と宣う父親の言葉はつまり裏返せば「そばにはいつも俺がいる」ということである。彼がいれば娘が完璧に安全だというのは今回実証された。娘が一度は夢見た可能性を切り開き、それを守り続ける父親という存在。父親であれば当然そうするものだ、ということを証明するのにこれほどまでの遠回りと破壊と殺戮を行わなければならなかったのだ。
最後の最後までリーアム父さんは美化された妄想からくだらない現実世界への着地を拒んだ。そんな「まともな」現実は望んじゃいない。そして完全に「望みどおりの」現実を手に入れた。それは妄想を徹底して突き通すことで逆説的に妄想世界を現実世界へと(力技で)置き換えてしまったかのように思える。彼の妄想は彼の拳と同義であり、妄想、拳、銃、妄想、点滴、宣戦布告、妄想、拳、銃、妄想、と連打して、この映画のありえない妄想をボコボコにすることで、あるべき形に変形させて「望みどおりの」現実に着地し幕を閉じたのだ。
そうだ、リーアム父さんは妄想世界を完全に我がものにーー「俺の現実」にしてしまったのだ、あの徒手空拳ひとつで。有無をいわせず。
ここで私はこの感覚が何かに似ていることに気づいた。なんだっけ、この誰にもできないことをずばずばやってのけて、通った後には何も残らないっていうのは。
しばらくたって思い出した。ーーこれは、うえけんの「さわやか君」だ。
誰もが口には出さないが、心の底では思っていることをずばずばとさわやかに真実の言葉を吐き出しながら状況を破壊して去っていく「さわやか君」なのだ。リーアム父さんの場合、武器は言葉ではなくて暴力だが、その破壊力は同等だ。むしろ剥き出しの言葉が生々しい現実を暴くのと同じ破壊力を視覚化・映像化したものだと言った方が近いかもしれない。彼の後には跡形もなく、何も残らない。
「さわやか君」に憧れる人々の目はきらきらと輝いている。リーアム父さんに憧れる私の目もまたきっときらきら輝いている。そこまで自覚して、わーははと笑って映画館を出るのが正解なのかもしれない。

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