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『PLUTO』地上最大のロボットより(原作 手塚治虫) 浦沢直樹 [漫画]


PLUTO 8 (ビッグコミックス)

PLUTO 8 (ビッグコミックス)

  • 作者: 浦沢 直樹・手塚 治虫
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2009/06/30
  • メディア: コミック



来日したメビウス氏を招いてのシンポジウムで、浦沢氏がメビウス氏に対する憧れの気持ちや「僕が行き着きたいものはこれだ!」という思いの丈を語っていた。浦沢氏が熱く語る気持ちはよく分かる。私もメビウスの絵に痺れて同じ憧れを抱いたし、やはり「僕が描きたいものはこれだ!」とかつて感じたものだ(でも描けずに終わる)。
浦沢氏が鉄腕アトムをリメイクするらしい、と聞いた時は正直いってあまり期待しなかった。ところが、ベースになるのが「地上最大のロボット」であると聞いた時にはとても興奮したし、同時にものすごい嫉妬を感じた。いやだって「地上最大のロボット」だよ?しかも浦沢氏はこれをアトムのエピソードの中で最も好きなものであり、これを読んで漫画家になろうと思った、などというのである。むろん、私だって「地上最大のロボット」がアトムの中で一番好きだったし、どれかリメイクして良いといわれれば必ずこれを挙げると思う。だから「ずるーい!」という気持ちでいっぱいになったわけだ。
ここで私がいいたいのは、あの浦沢直樹と考えることが一緒だ、などというくだらないことでは勿論なくて、同じように考えている漫画読者はごまんといるだろうな、という当たり前の事実である。そしてそのごまんといる人々は絶対に他人のリメイクを許容しないだろうということも。だって手塚を超えられるわけがないんだから。正確に言おう。超えられるなんて考えられないからだ。それは奇しくも浦沢氏がメビウス氏に対して「(メビウス氏がいる限り同じようなものを)僕が描く必要がない」と発言したのと同じ理由による。
しかし、浦沢直樹は健闘した。オマージュを捧げリスペクトしつつも、決しておもねらないスリリングな漫画を僕らに読ませてくれた。『PLUTO』は素晴らしい漫画だと思う。完結したので改めて一気読みしたら、やはり凄かった。その気持ちには一点の曇りもない。「地上最大のロボット」というモチーフを得て、浦沢漫画の最良の部分が生み出されたともいえよう。

だが、やはりわずかな不満は残る。これはもう仕方がないことだと思う。誰が何をやっても必ず文句は出る。諦めて戯言だと思ってほしい。私が抱いたのは一つだけだ。それも特殊な個人の好みの話だ。つまりロボットの破壊場面である。
手塚版「地上最大のロボット」で何が一番魅力的だったかといえば、世界最強を自認する各国ロボットたちがプルートゥによって見るも無惨な粉々の姿に破壊される場面にあった。俺こそが世界一だと自信過剰ぎみなロボットが一撃で粉砕されてしまう。そしてその場面を惜し気もなく描いたのが手塚だった。以前も書いたが、私は手塚漫画の中で何かが破壊される場面でどうしてもエロティックな印象を受けてしまう。手塚が意外にも機械音痴だった、機械が描けていないというのは有名な話だが、死ぬ寸前まで自分が破壊されるはずがないと考えている7体の最強ロボットが一コマでバラバラにされてしまう場面の魅力は筆舌に尽くしがたい。一言でいえばナンセンスさだ。途方もないくらいの無意味さがあるのだ。
特にゲジヒトだ。特殊なゼロニウム合金の体を持ち電磁波攻撃にびくともしない彼が笑いながらまっぷたつにされるのが7体の中で一番記憶に残る最高の場面だった。だから浦沢版でゲジヒトを主役に据えたのはものすごく真っ当だと思う。
とにかく手塚版で魅力的だった破壊場面を浦沢版でどのように描くのか、というのは私の一番期待していたところだった。しかし冒頭のモンブランに始まって、ノース2号、ブランドーまで来て、私はあれ?と思った。どうも直接的な破壊場面をあえて避けているように感じたからだ(とはいえ非常に浦沢漫画的演出なのだが)。ヘラクレスはどうだ、と思ったがヘラクレスにもなかった。なもので私はこう考えた。そうか、これはきっと最後の最後、クライマックスあたりでプルートゥの回想でその直接的な破壊場面を描き尽くす演出の伏線なんだな、と。そう考えるとすべてつじつまが合うので、私はひたすらそれを楽しみに連載を追っていた。ところがエプシロンの破壊場面は、控えめだがその控えめなところが身震いするほど残酷な描写となっていて素晴らしかった。あれ?エプシロンは描いちゃうの?その後はみなさんご承知の通りの展開で結末へなだれ込む。結局ロボットの破壊回想場面はなかった。
浦沢直樹(と長崎尚志)は手塚版のボラーの謎をお得意のサスペンス仕立てに深化させて一流のドラマにした。そもそも手塚にとって謎とき自体の思想が後付けのものでしかないように思える。そこを逆手に得意分野に持ってきたのだろう。そして破壊場面は「同じ方向性ならば僕が描く必要がない」と思って控えたのだろうか。でも私は浦沢直樹の破壊場面を見てみたかった。それは浦沢がたぶん最も描き辛いものだろうからこそ、見てみたかった。それだけだ。

この漫画は予想以上に原作に忠実なつくりになっており、いくらかの肉付けと設定の現代化を図っているが極端な逸脱が無いので原作愛読者にとっても反発を感じる部分はほとんどない。手塚の作り上げた世界を結末を思想を、ある程度まで精緻化させ理屈を付け今この時点でのありうべき未来像としてリニューアルさせることにかなり成功している。
手塚版の自信過剰な力自慢のロボットたちと違い、浦沢版のロボットたちは皆どこか戦うことに哀しみを抱いて飛び立っていき、そして散っていった。まるで最初から死ぬことを知っていたかのように。それはすなわち何のために戦うのか分からないが戦わなければならないことを悟った者の哀しみだ。世界あるいは自分の国のために大きな戦争に参加して、結果大きなトラウマを抱えた彼らが再び戦争に赴く時にその拠り所となるのは自分達の小さな家族だけだった。そしてその戦う相手もまた大きな偏った悲しみという大義名分を抱えていたのが明らかにされる。しかしその大義名分は空虚なもの、人工的に注入された怒りであった。繰り返される怒りと悲しみの負の連鎖に翻弄され続けるこの世界において注入される偏った悲しみと怒り。それを自覚した上で疑問と哀しみを抱きながらも戦う者もいる。ちっぽけだが守るべきもののために大きなものを背負わされた者たちだ。それがロボットに託されているというこの漫画の隠喩の真の意味を私はもう一度考えてみようと思う。
その無意味さの象徴としてやはり破壊場面を見たかった、というのは高望みだろうか。

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『ダニーボーイ』島田虎之介 [漫画]

米ブロードウェイで活躍した一人の伝説的日本人俳優、伊藤幸男のたどった人生の軌跡を多くの人々の記憶を回想する形で描き出した漫画、とひとまず書いておこう。
その回想形式も一筋縄ではいかなくて、5000人を取り上げた助産師の引退パーティで会場に流れたBGMから思い出す「今までで一番大きなうぶ声」や、社史編纂の資料を提供するために引っ張り出したアルバムの中の一枚の写真から思い出される歌、小学校教師のあいまいな記憶の中の合唱コンクールで転校生が歌った素晴らしい独唱のこと、等々、それぞれゆるやかに繋がっているのかいないのか定かでない異なる場所、時間に生きている人々がそれぞれのやり方で回想するのだった。
このいくらか雑駁な感じで点描される人々の回想は、伊藤幸男の人生を時系列に沿って追い続ける。しかし最後にはこの雑駁さが、記憶に残る歌ーー「僕が歌ったあの歌」「いつものように歌った」歌がこの世界のあちこちに様々な形で残り、忘れられ、または時に思い出されてきたのかを、まざまざと浮かび上がらせることになる。伊藤自身も忘れてしまった歌がこの世界にどのように響き、散らばり、消え、残っていったのか。
そう、これは回想形式で一人の伝説的日本人俳優の人生を浮かび上がらせた漫画ではなかった。この漫画は、伊藤幸男の記憶を持つ無数の人々の人生を伊藤と対等に浮かび上がらせているのだ。決して不運な俳優人生と非業の死を迎えた伊藤幸男が主人公なのではない。第一話と最終話で閉じられる伊藤の最後の姿(それすら伊藤自身なのかはっきりと明示はされていない)、厳密にいえば無線から響き渡る歌声はまた、間に挿まれた六つの人生の根底に流れる歌声である。しかし、この歌声を永い時間をかけて記憶の結晶として美しく結実させ沈澱させたのはそれぞれの人生を生きる「彼女たち」だった。幸男の生の円環は閉じてしまったが、彼女たちの円環は未だ閉じていない。あぶくのように交わり必ず消え去る運命のこの円環は、誰もが描きつつあるものであり、そこには差別はない(幸不幸はあるかもしれない)。この差別のなさは一見無慈悲なものであるのだけど、こうして幾つかの記憶を奇跡のように結び付けて見せられると究極的には慈悲深いものであるような気がしてくるから不思議だ。
最終話におけるこの統合と拡散のカタルシスは、これまでのシマトラ作品にも共通しているものだけれど、浮かんでは消える光芒のような一人一人の人生の交錯を目の前にして、私は一片の哀しみと一片の喜びを感じつつ深い満足を味わったのだった。



ダニー・ボーイ

ダニー・ボーイ

  • 作者: 島田 虎之介
  • 出版社/メーカー: 青林工藝舎
  • 発売日: 2009/08
  • メディア: コミック


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『櫻の園』 吉田秋生 [漫画]


櫻の園 白泉社文庫

櫻の園 白泉社文庫

  • 作者: 吉田 秋生
  • 出版社/メーカー: 白泉社
  • 発売日: 1994/12
  • メディア: 文庫


あなたの考える完璧な少女漫画は?と問われて私が答えるのは吉田秋生の『櫻の園』かもしれない。
これを読んだのはたしか高校生の頃だったと思うが、当時の私はこれを「なんてえろい少女漫画なのだろう」と思っていた。男子が求めるえろさではなくて女子のそれ。赤面せずには読めないほどだった。こんなに赤裸々に女の子の現実を描いているなんて、と思っていた。それが本当のことなのかどうかは私にははかり知れない世界だったにもかかわらず、そこには「女の子の本当」がはっきり描かれているという直感があった。これは男子が読むものではない、とまで考えていた。あなたの考える最もえろい少女漫画は?と問われたら、当時の私なら即答でこれを挙げただろう。
吉田秋生といえば『櫻の園』。バナナフィッシュよりもこっちが好きだった(今でも)。しかしなにか近寄りがたい漫画家でもあった。私には『櫻の園』の本当の意味がいまだにわかっていないとずっと(今でも)思っている。男には永遠にわからない世界があって、それがこの漫画の中にあるのだと思う。何か再映画化されるとかで話題になったので、久しぶりに読み返してみた。
頭ではわかったつもりだった。若い頃に読んだ時よりもこの物語の何たるかがよっぽど理解できたと感じた。しかし、だ。
私にはやっぱりこの世界には近付けなかった。その近付けない距離感といったら高校生の自分とほとんど変わっちゃいないのだ。
高校生の時はこの漫画で描かれた女の子の態度や気持ちや会話の内容が半分くらいしか分かっていなかった。今ではそれらの意味も昔よりもはっきりと理解できる。しかし肝心の部分でやっぱりその内部には入り込めないのだ。昔も今もまったく進歩なし。
ここははっきり白旗をあげておくことにしたい。何に?・・・少女に。

「しかし マジでチャランポランをやるには これくらいでめげてはいかんのだよ」
この漫画史上に残る名台詞(私が勝手に決めている)。久しぶりに読んでも同じところで震えた。
絵柄もまったく古びていないし(これは1986年刊行だ)、ときおり挿まれるやまだ紫調のトーンの使い方やコマの切り取り方も美しいと思う。ファッションがどうのこうの言い出すのは野暮というものだ。
ひとつだけ、「ひどい あたし いろんな男の子とつきあったけど 売春なんて絶対してない お金なんてもらっていない 何いわれたっていいけど これだけはいや こんなのひどい」という台詞があるのだけれど、ここには少し思うところがあった。きっと今でもこういう台詞を言って涙を流す女の子はいるはずだけど、その言葉が意味するところが微妙にずれてしまっている現在では、ほんのわずかだが隔世の感を抱かずにはいられなかった。

あなたの考える完璧な少女漫画は?と問われて私が答えるのは吉田秋生の『櫻の園』である。
それは「完璧すぎて男には入り込めない少女漫画」という意味かもしれない。
もしくは「絵から台詞からコマ割りからストーリー展開からなにからなにまで完璧な少女漫画」ということかもしれない。
こういう少女漫画を読んで、私は自分が女の子だったら面白かったのかなあ、苦しんだり泣いたり笑ったりできたのかなあ、などとのんきに夢想したのだった。
そしてかつてこれを「えろいなあ」と感じた自分に対して「これをえろいと思うなら、お前は死ぬまでえろく生きねばならぬのだ」と説教したい衝動にかられるのであった。
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『東方見聞録』 岡崎京子 [漫画]


東方見聞録―市中恋愛観察学講座

東方見聞録―市中恋愛観察学講座

  • 作者: 岡崎 京子
  • 出版社/メーカー: 小学館クリエイティブ
  • 発売日: 2008/02
  • メディア: 単行本


今年のお正月に凧上げなどをしながら風の強い青空を眺めていて、ふと思い出したのがこの漫画でした。あの遠くまで透き通った青空によく似合うのです。
昨年を振り返って、個人的に最も鮮烈な印象が残った漫画でした。1987年にヤングサンデーに連載された作品。ほぼ20年前のものです。
岡崎京子が漫画を描けなくなってからもう10年以上も経っています。この空白が生じる直前の彼女の漫画は息苦しくて痛くてひりひりする辛さがありました。けれどもその痛さをもって生の実感をリアルさを感じて、それなしでは生きている意味がないというほどに読者に挑戦的に突き付けてくる凄みがありました。あるいは、そういった強迫観念めいた生を生きる少女たちを危ういバランスの上で踊らせていました。本当にあの頃、私は「この次は一体どうするつもりなのか」と思いながらも新刊が出るたびに読まずにはいられませんでした。『ヘルタースケルター』を単行本で読み終わったあとで(すでに彼女は漫画を描ける状態ではありませんでしたが)、私はなにか安堵を感じていました。そこには痛みだけではなくてそこを抜け出すための強さを登場人物が得ていたように思ったからです。それは多分に童話のような架空の物語のような終わり方だったのですが、確実に彼女の漫画が次の段階に進みつつあるのだと思わせる結末でした。嬉しかったのです。しかしその後の漫画はいまだに描かれていません。今の岡崎京子ならどんな漫画を描くでしょうか。
この空白期間に様々な過去の作品が復刊したり単行本初収録されたりして私の渇きを幾らかなぐさめてくれました。しかしその渇きは完全に満たされることがないのです。
ところがこの『東方見聞録』には心底びっくりさせられました。白状すると衝撃をうけました。あの満たされることがない渇きにすうっとしみ込んできたのです。しみ込んで私の裡のどこか分からない場所に確かに効いたのでした。
この漫画は、物語としてはボーイ・ミーツ・ガールもので、二人で東京の各所を巡って歩くというただそれだけのものです。ひねりも息苦しさも痛みもありません。そう、まったくといっていいほどそういったものがスコーンと抜けています。でも確かに岡崎京子はかつてこういう漫画を描いていたのです。軽薄?盛り上がりがない?時代を感じる?あるいは、時代を感じられない?
そんなことはカンケーありません。
ポップな絵とまっすぐな青春。底抜けな明るさ。もしかして、今の岡崎京子が漫画を描いたとしたらこれに近いものになるのでは?とあらぬ空想をしてしまいます。このスコーンと抜けているところが、今の私にズキューンと効くのかもしれません。『へルタースケルター』のラスト、あれは現実世界での嘘や取繕いや苦しみ妬み羨望を含んだ時代の空気に縛られた私たち(もしくは「岡崎京子の漫画」というある種の時代の指標となっていたもの自体)をも虚構によって吹き飛ばす、そんな試みだったように思えてなりません。
現実を吹き飛ばす強さというものは、現実というものの重さや性質を客観視するための一つの手段でもあるわけですが、この『東方見聞録』は彼女の漫画が20年前からずっとこの強さを持ち続けていたということを思い出させてくれました。
そしてやっぱり本を閉じた後に心に浮かぶ印象は、お正月の雲ひとつない、あの遠い青空なのです。
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『からん』木村紺 [漫画]


からん 1 (1) (アフタヌーンKC)

からん 1 (1) (アフタヌーンKC)

  • 作者: 木村 紺
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2008/10/23
  • メディア: コミック


『神戸在住』完結後に『巨娘』を発表し、それから満を持して連載が開始されたこの『からん』。第1巻をじっくりと味わいました。すばらしかったです。痛快無比なあの『巨娘』もまだ続きそうですし、ファンとしては楽しみが増えてきました。
さてこの『からん』、京都の女学園を舞台にした柔道漫画・・・と紹介したいところですがそれにおさまらない正統派学園物になりそうな予感です。もはや緩急自在になったシリアスとギャグのバランスとリズムがはまってしまうとクセになります。『神戸在住』では「カマトトぶってー」といいたくなる瞬間も多少ありましたが、単行本のカバー裏のわけのわからないテンションの高さから、実は猫をかぶっているだけだというのはおそらく多くのファンの思っていたところでしょう。それが『巨娘』で180度正反対へぶっちぎってしまい、木村紺という漫画家の潜在的ポテンシャルに恐れをなしたものでした。
そして『からん』はそのちょうど中間にあるような描きっぷりです。いやとうとう本領発揮といったところでしょうか。それまでのモノローグ的ナレーションが物語の進展に補助的な役割をしていた、独自の形式を封印しています。絵柄も意識的に変えています。それだけに作者の本作にかける意気がびしびし伝わってくるようです。新しいことへの挑戦。それはこの場合とりもなおさず「普通の」漫画として描くことに他ならないのですが。そしてその試みは今、成功をおさめていると感じます。形式に変化はあってもこの漫画には木村紺の烙印がくっきりと押されているのを読みながら感じます。そしてその変化によって描かれ得るようになった登場人物の内面についても「普通の」描写でなく、他の漫画が踏み込めていない深さへ一歩踏み込んだものを目指しているようにも感じます。
結果、濃密な構成と丁々発止のコマ展開によるたいそう読みごたえのある漫画になっております。
というわけで私はこの漫画を断然応援します。とても面白いよ。

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よつばと!考つづき [漫画]

友人のkubiさんがトラックバックをしてくれたので調子に乗っています。ありがとう。
あの記事は一個人の見解以上のなにものでもありませんが、あれを書いた後で記事を読み返してみると「そうじゃない、違う、そうじゃない」ということばかりが(自分で書いたくせに)目に付きました。
例えば、「よつばが成長して普通の常識を携えた分別のある少女になってしまったとしたら、この漫画は続けることができなくなると思う。」というのも、もしかしたらそうじゃない気がしてきました。すでによつばは8巻の時点でそれまでの「よつば特有のキャラ」を失いつつも、これからのキャラを新たに獲得しています。それはまた今までもずっとなされてきたことであり、よつばは(ありていにいえば)成長しているのです。よつばの突飛でもない行為は8巻においてはあまり見受けられず(ぼくじょうマンでさえ普通の子供っぽい遊びに見えます)、お祭りのおみこしや、どんぐり拾いに至ってはもはやうちの子とあまり変わりのない感じなのです。(「とーちゃんあきしってる?」みたいなことはうちの子も言っていた。「はっぱがあかときいろになって、しんごうみたいだよねー」なんて。)
にもかかわらず、読者はよつばを「よつば」とみなしていくでしょう。つまりふつうの子供とおなじアクションを起こすようになってもこの漫画が終わってしまわないことを示唆しています。それはまさに読者が「よつばと読者」状態をこれまでずっと続けてきていてよつばの成長をよおおく知っているからといえましょう。作者もどうもそのあたりを踏まえてよつばの行為から突飛なことをあえて抜かしてきているのではないかという気がします。どこまで抜いても大丈夫なのか、試行錯誤しているのではないでしょうか。
これから気になるのは、よつばとまったく同年代の友達が登場してきた時にどうなるのか、ということです。よつばと同じくらいのポテンシャルを持った子供がからんできたときには一体どうなることか楽しみです。案外フツーかもしれませんが。
話を戻すと、よつばが今後も普通の子供に向かって成長していくのであれば、今まで私たち読者が感じてきたこの漫画の面白さの質も変わっていくのでしょうか?たしかに他の漫画においても冒頭はあるキャラクターがその特異なキャラ設定で物語を牽引し、ある程度軌道に乗ったところで脇役と主役とのからむシチュエーションだけで引っ張っていくことがよくありますよね。この漫画でもシチュエーションと人物たちのからみあいで成立する話がこれまでもいくつかありました。よつばの特異なキャラが薄まっていくにつれてこれからはそういう周囲の人々との関係性で物語がつくられていくのかもしれません。お祭りでこれまでの脇役たちが総動員されたのもそういう予感を感じさせます。
そうであれば、例えばよつばが小学校に入学することになってもそこまでの過程を必ず丹念に描いていくのでしょうから、何一つ違和感なく描かれるかもしれません。kubiさんが書いた「よつばと登校」なんて実は私にはけっこう絵が浮かんでしまいました。そうするともう「よつばと!」は無敵なわけで、いつまでもどこまでも描き続けることが可能なのでは、なんて思ってしまうのです。
「よつばと卒業式」「よつばと修学旅行」「よつばと試験勉強」「よつばと成人式」(・・・ああ、私は死んでるな、その頃。)
逆に、「よつばと!」はいつでも最終回になりうるともいえるでしょう。なにごともない人生に(しばらくは)終わりがないのと同様に、終わりらしい終わりにはならないのかもしれません。そしてそれがこの漫画にはふさわしいと思います。
この漫画は、物語とは一体なんなのか、ドラマがなくても成立していくのか、それともこれが新しい形なのか、などなどいろいろと勘ぐりたくなる要素がたくさんあってそれで飽きないのかもしれません。
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『よつばと!』あずまきよひこ [漫画]


よつばと! 8 (8) (電撃コミックス)

よつばと! 8 (8) (電撃コミックス)

  • 作者: あずま きよひこ
  • 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2008/08/27
  • メディア: コミック



友人のブログで『よつばと!』が何がどう凄いのか?というので、いっちょ考えてみるか!ということで以下の文章を書いてみた。おもに『よつばと!』が描いてきたもの、あるいは描いてこなかったものについてこれまで意識下で考えてきたことを言語化する試みである。これが友人に対する回答になっているかどうかは心許ない。というか、自分が一度はきちんと言語化しないと気が済まなかっただけである。
では・・・

かつて漫画批評家の伊藤剛氏が行った作者インタビューの中で、伊藤氏の友人の話として、この物語は実は小岩井氏とジャンボが(もういなくなってしまった)よつばを回想しているものなのではないか、という予測を当の作者を前に披露している(ユリイカ2006年1月号)。
作者は(笑)で軽く受け流していたが、そういう妄想をかきたてるくらいこの漫画の持つ解釈への間口は広い。むしろ「我こそ漫画読みだ」と自負している人ほど、こういった予測が自然に浮かんできてしまうのではないだろうか。つまり、それまでの漫画読書経験から容易にありそうなストーリー展開への派生を参照し想定してしまう読者ほど、読みへの欲望(ひいてはそれがこの漫画自体への求心力となりうるものなのだが)を刺激されてしまうのだと思う。
ところが、逆説的だがそういう予測や一面的な解釈や「お話」への回帰こそ、この『よつばと!』が忌避しているものである。もう少し言い換えると、従来の漫画が駆使してきた(それこそが商品としての価値だという考えに基づく)「物語へ読者を引き込むためのストーリー展開」や「次回への引き」や「あっといわせる主人公の能力とか秘密の出自」(これらはすべて同じ意味だともいえる)などなどに対してすべて肩すかしをくらわせているのである。
もう一歩だけ踏み込んでみると、読者が物語に引き込まれると(作り手側が)考える安易な手口として、例えば「よつばの出生地」「よつばの本当の両親の消息」「よつばと小岩井氏の出会い」「街へ引っ越してきた理由」などを話が進むにつれて徐々に開示していく、という方法が考えられるだろう。しかし作者はそれを決してやらない(上記のインタビューでも設定を決めていないと発言したり、登場人物の背景は今後も描かないと断言したりする)。
そういった大多数というか安直というかやり尽くされた「手法」をこの漫画は採らない。この「手法」を選択してしまうと、ストーリー展開は謎解きの要素を中心にドラマティックに変化するのだろうが、逆にその重力に捕われてしまい逃れられなくなるだろう。こうした劇的な動きを作者は望んでいないのである。
その代わりに、この漫画の世界をまるごと読者に差し出すことを選択したようなのだ(うまい具合にそうした読者の脳裏に浮かぶ「お話」への欲望をくすぐる程度に匂わせたりはするのだが)。
結果的に読者はこの世界の中の登場人物の一人として開かれた門戸から入り込むのだが、そこでは読者は読者という特権を与えられることがない。教えられる情報はこの世界の登場人物が知りうるものに限られるし、見られるものや話されることにもある一定の制限が設けられるのである。

この前の「BSマンガ夜話」の中で「あれは『Dr.スランプ』を直球で描いたのだ」という話があったが、私もよつばはアラレちゃんだとずっと思っていた。第1巻での小岩井氏の台詞「よつばは無敵だ」にも象徴されている。
アラレちゃんは可愛い眼鏡の少女姿をしているが、その実強大な力を持つ「めちゃんこつおい」ロボットだった。『Dr.スランプ』のストーリーはその設定によって牽引される部分もいくらかあった。小さくかわいい少女が建物を軽々と持ち上げて地平線の彼方へ投げ飛ばし、なめてかかった相手は目玉が飛び出し鼻水がたれあごがはずれるのに気付かないくらい驚愕する。そのギャップを読者は面白がった。アラレちゃん本人は無自覚で物を破壊するし、物事の本質をずばずばと指摘して目の前の状況を無化することで、いわば彼女が通ったあとは草一本残らないほどの壊滅を引き起こしていたのである。(それはそれで批評的な設定だった。物事の尺度が「つおい」か「つおくない」かで測られることに読者はある種の痛快さを感じていたに違いないからだ。「好き/好きじゃない」とか「良い/悪い」などの単純な二元論を揶揄していたとも読める。)
しかし、よつばはアラレちゃんではなかったのだ。それは第2巻第13話で覆される。
そう、よつばがみうら扮する目玉人間に迫られて真剣に大泣きする場面だ。無敵に思えたよつばが弱みをみせた日。「あーあー」と泣くよつばを読者は(みうらと同じく)はたして予想しただろうか。
私はあそこで「よつば=アラレちゃん」説を捨てざるをえなくなった。当然、よつばは完全無敵ではないし、状況を焦土化しつくすほど傍若無人なのではない。この漫画はその設定が面白いわけではないのだ。
よつばが目玉が怖いという事実も、例えばドラえもんのネズミ恐怖症のように完全なる設定として扱われるのではない。なぜ目玉が怖いのかという理由すらはっきりしていない。おそらく理由は決められていないだろう。またドラえもんのように話の端緒にもオチにもこの設定が使われることはないだろう。そしていつかきっと知らぬ間に理由もなく説明もなく克服されてしまうだろう。
ところで、この大泣きした日の後も、よつばの無敵っぷりは健在である。しかし牧場に行く前日に熱を出して行けなくなった時にも、よつばは無敵どころではなく風邪にやられて寝込むしかなかった。都合良く熱が下がったり、それでも無理を押して出かけたりはしないのである。その判断は漫画の作者ではなく小岩井氏の判断に委ねられている。読者は都合良く熱が下がって牧場に行くことができたという「お話」を欲望しうる。しかし、その欲望には決して沿わないのがこの漫画なのだ。
「BSマンガ夜話」で夏目房之助がこの漫画を「(比喩的にいうと)回転のない直球だ」と発言していた。これには座布団を一枚あげたい。言い得て妙である。

さて、作画、コマ割り、構図などについてまだまだ書きたいことは山積みなのだが、いったんここで止めるべきだろう。
その前に、実際によつばと同じ年齢の女の子を子供に持つ「とーちゃん」として一言書いておくのも無駄ではないかもしれない。
よつばは決して本物の子供のような言動をリアルにするから面白い、のではないと思う。よつばはリアルな5歳児ではない。かなり似ているところもあり、絵や字の発達状況といった面は忠実に念頭に置いて描かれていると思う。しかしリアル5歳児の言動に忠実に描いたとしたら、ここまで面白い漫画にはなり得なかったこともまた事実だろう。
「BSマンガ夜話」に送られたファックスに多くあったのが「よつばみたいな子供が欲しい」とか「育てたい」とか「かわいい」とか「癒される」とかいう内容だったのだが、私と一緒にこの番組を見ていた妻は一言「よつばみたいな子供は欲しくないし、ああいうふうに育てたくない!」と言った。私も欲しいとは思わない。リアルな子供は、よつば以上にしんどい時がある。
あのよつばに体現される子供像こそが『よつばと!』最大のフィクションだ。しかし、よつばが実在の子供とはちがうことを感じつつも、漫画は漫画として大いに楽しむことができる。つまりこの漫画は、よつばがリアルだから面白いのではなかった。(テヅカイズデッド風に云ってしまえば、よつばが子供のおばけすなわち「キャラ」であるからだ。・・・この解釈、正しい?)
以下にいくつか理由を書こう。
第一に、よつばは実在の子供よりもわがままではない。むしろききわけがよすぎる(うちの子が異常にわがままであるという可能性もぬぐえないが、たぶんそうではなさそうだ。大抵の5歳児はもっともっと執拗にわがままだ)。
第二に、よつばには子供っぽい独占欲が感じられない。言い換えるととーちゃんに対する甘え方が違う。ま、そのあたりは「BSマンガ夜話」でも疑似家族という点で少し触れられていたが、とーちゃんは本当の父親ではないし、父親役を演じているわけでもない。だから甘え方ひとつとっても親子関係(疑似であっても)の中の子供の甘え方とは異なっているように感じる。そういえばよつばは小岩井氏のことを「とーちゃん」と呼ぶが、これまで自分のことを「とーちゃんのこども」という言い方で説明していないのではないだろうか。「こども」という概念に気付いていないのかもしれないが。
第三に、よつばは前述したような「お話」を喚起するような己の背景に引っ張られることはまるでないが、シチュエーションの中で進行するギャグには引っ張られて従属している。きわめて自然な形で参加しているが、ギャグが生まれてくる場面で唯一、作者の存在が感じられる(でも作者は別に作者の存在をひた隠しにしているわけでもなさそうだけどね)。
よつばがよつばのキャラを維持し続ける限り、この漫画は漫画として成立する。よつばが成長して普通の常識を携えた分別のある少女になってしまったとしたら、この漫画は続けることができなくなると思う。おそらくその時には最終回を迎えることになるだろう。
だが、このよつばをよつばたらしめているこのキャラは、よつばが経験を重ねるたびに消耗し失ってゆく運命にあると思われる。すでに失われたものもあるだろう。個人的には小学校に入学して普通に授業を受けているよつばの姿を今のところ想像できない。もしもそれを逸脱することでよつばがよつばであるならば(その逸脱は現在は周囲に見守られて受け止められる範囲の逸脱なのだが)、その時の逸脱は周囲のフォローがきかない社会的な問題につながっていってしまうからだ。だから『よつばと!』は終わってしまうだろう。
しかし私はつい夢見てしまう。もしも、このよつばのキャラというもの凄く綱渡り的な「かたち」をその先も維持していくことができたらならば・・・逸脱をしてもなお「お話」にとらわれず、かつよつばが(その時の)よつばたりうる魅力を保持できるという刃の上をつま先で歩くようなことができたとしたなら・・・あずまきよひこという漫画家はこれまで以上にとてつもない革新をやってのけることになるだろう。その時に漫画は新しい段階へと昇ることになるだろう。どうか夢を見させて下さい。

つい先日発売された8巻ではすっかり秋めいてきた「よつばと!」世界だが、ここにきて時間が少しずつ飛びはじめている。
1話から35話まではほぼ1話が1日だったのが、36話から9月1日(月曜日)になり、続く37話から55話までの18話では10月中旬(おそらく13日)まで飛んでいる。およそ2日に1回のペースだ。これが今後も続いていくのか、それともまたいつかの時点でペースが早まるのかはわからないが、いずれにせよさりげなく変化は訪れている。
毎回目が離せないが、これからも全く目が離せない。次巻が出る頃には、うちの子もすっかりよつばの年齢をこえてしまうだろう。よつばの一年が経つ頃には中学生くらいになっているような気がする(そこまではいかないか)。
あずまさん、がんばってください。
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『陽だまりの樹』手塚治虫 [漫画]


陽だまりの樹 (1) (小学館文庫)

陽だまりの樹 (1) (小学館文庫)

  • 作者: 手塚 治虫
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1995/05
  • メディア: 文庫



実家に帰省してきました。帰省するたびに本の整理をするのが私の義務というか仕事になっていまして、周りにあきれられながらも押し入れから段ボール箱を引っ張り出してきたり、床下にもぐってホコリだらけの本を探し出すのです。
なぜ周りがあきれるのかというとまた長くなるのですが、要するにそこまで本をためて置きっぱなしにしたのは私なので、それらの本を整理して不要なものは売り払うところまで手配して責任を果たそうとするのですが、なんでそんなことに躍起になっているのか周りはさっぱり理解できないので「せっかく帰省しているのだから、のんびりすればいいのに」とか「今やらなくてもいいでしょ」といわれてしまうのでした。だから年に数回の帰省で少しずつ整理してもなかなか本が減らないのです。
が、今年はやりました。かなりの本を減らしました。というかもう置いておいても今後読まなそうなものはいらない!という不退転?の意気込みで古書店へ持っていきました。
某大長編や思い入れの少ないファンタジーRPG小説のたぐい、陽焼けしまくりのサガンの文庫とかなんで買ったのかわからない新書のいくつかとか、ぼーんと5箱くらい。
それでもまだ7箱くらい残りました。その中から、持って帰りたい本やCDを選んで箱詰めしたら2箱になりました。全部持って帰ろうとしたら止められたので、一箱のみ。残りは引き続き実家預かりです。いつまでこんなことをやっているんだ私は。

そんな箱の中に手塚治虫の『陽だまりの樹』がありました。晩年の大作です。正月は『アドルフに告ぐ』だったので、今回はこれを読破することにしました。
この長編は手塚の曾祖父である蘭学医の手塚良庵と、もう一人の架空の武士である伊武谷万二郎を主人公に、彼らの目線で幕末を描いています。世に幕末を描いた小説、漫画は数多くあります。手塚自身もすでに新撰組を描いたことがあります。しかしここでの描き方は、歴史上の人物が豪華絢爛にきらめく群雄劇などではありません。あくまで良庵と万二郎の人生を中心に、歴史上の事件や人間関係に翻弄される市井の人々を描いているのです。
さて今、歴史上の、と書きましたが、日々起きる事件には歴史上もくそもなく、起きてしまったことは元には戻らないし、それが歴史に残るか否かはその事件の当事者や傍観者にとっては実際どうでもいいものです。にもかかわらず、歴史に名を残したがる人はわんさといますし、今では凶悪な犯罪を犯すことで有名になりたがる者もいるくらいです。正であれ負であれ名をのこしたいという欲求はどこから出てくるのでしょうか。そりゃ私にだって多少はあります。名を残したいというよりは、自分の納得のいく何かを、なんでもいいから何かを残した(と思いた)い。死ぬ時にこれだけは自分はやった、と思わないよりは思って死にたい。そんな欲求はあります。
話がそれましたが、歴史に残らない事件なんて毎日、毎時間、毎分、毎秒起きています。それらの無数の出来事を羅列しても永久に歴史にはならないのと同じように、それをそのまま漫画に描くとしたら、これほど意味がないこともまたありません。そもそも漫画になりません。だから、市井の人々を描くことがイコール現実的な地に足の着いた真の歴史だとか、立派な漫画だとか、そんなことを言う気もまるでありません。
ではこの漫画で志向されている目線とは何なのでしょうか。もちろん当時の社会の中で地位の低い主人公が既存の権力と対立していくが、時代の勢いによって少しずつその地位が認められていく姿を描いた、というのは一番オーソドックスなところでしょう。しかし、同時にそこに描かれるのは、猪突猛進の性格の万二郎が武士としての拠り所(名誉や正義や誠実さなど)を過剰に思い込むことにより失敗を繰り返す姿や、にもかかわらずその性格によって周囲の信頼を勝ち取っていく姿や、逆に拠り所が徐々になくなってしまい最後は迷走してしまう姿などです。(漫画自体も最後はやや迷走気味です)
とてつもない成功や勝利、あるいはとてつもない失敗、敗北は歴史になりえます。しかし、歴史に乗り切れなかった人々やそもそも歴史に残る事件にまるで関わりのなかった人々や事件に関わっていてもその他大勢の一人に過ぎなかったとか、そういった人々は歴史に残りません。
手塚良庵にしてもいまや手塚治虫の先祖といわれることはあるにせよ、この漫画が描かれるまではそういう残らない人々の中にいたはずです。そういう人々を現代に甦らせるために手塚はペンをとったのかもしれません。しかし当然、派手な物語にはなりません。そこで生まれたのが万二郎だったのだと思います。まったく架空の人物。当たり前ですが歴史には残っていません。けれども良庵に比べるとよっぽど歴史上の事件に陰で関わることになります。狂言廻しとしては派手だし、突飛だし、にもかかわらず魅力的なキャラクターなのでした。それでいて良庵というキャラクターを食ってしまわない程度のバランスが非常によくとれています。
後半に、この二人の主人公が飲みかわす印象的な場面があります。その一コマを描きたかったのだろうなと思わせるコマがあります。そこがこの漫画のクライマックス。あとは終息に向かうのみです。(これ以降は漫画自体の集中力がガクッと落ちるような気がしました。良庵の動きはぱっとしないし、万二郎は先に述べたように迷走してしまいます。)
歴史は全て未来から見ている筋書きのある物語のようです。歴史に残っているのは(未来から見て)その物語とずれていない人物です。しかし、この漫画では未来は不確定のものであり、キャラクターたちは歴史的に正しいことをするわけでもなく、むしろ相当ずれた行為もするわけです。ほとんどの同時代に生きている人々は未来が見えていない、ということをこの漫画は描くのです。そしてそういう人々はたまにこういう珍しい漫画に愛惜を込めて描かれない限りはその存在すらもなかったことにされてしまうのです。
ともあれ、それについてとやかく言うつもりもありません。歴史に残らずに死んでいく人間もごまんといるんだー!と怒鳴る気もありません。こういう物語がもっと多く読みたい、それだけです。

『百舌谷さん逆上する』1巻 篠房六郎 [漫画]


百舌谷さん逆上する 1 (1) (アフタヌーンKC)

百舌谷さん逆上する 1 (1) (アフタヌーンKC)

  • 作者: 篠房 六郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2008/06/23
  • メディア: コミック



この漫画もまたツンデレを素材に読者を翻弄する一筋縄ではいかない作者の手によるものだ。
第1話の密度の濃ゆいこと。転校生がやってくる。クラスの担任にツンデレという病気持ちだと紹介される。クラスメイトが騒然と「萌ーえ!萌ーえ!」と囃し立てる。担任が「みんなもよく分かってあげてね」と言う。もうこの時点でズレズレだ。ズレズレなのに、このもどかしさはいつかどこかで感じた苛立ちにそっくりなのだ。
あっちかと思えばこっち、こっちだろうと読めばそれをことごとく裏切る。それがまた小気味良いくらいなのだ。何重にも意味を引っくり返してつかみどころがないと思いきや、裏側の裏側は表側、とでもいわんばかりのツンデレぶり。しちめんどくさい漫画なのである(ほめてます)。
まだ物語が始まったばかりなので、これからに期待なのだが、当初からハイテンションすぎて、既にクライマックスが来ているのではないかという危惧もあり。カバ夫くんの動向が今後のポイントになるはず。てか、それしかない。
これもまたアフタヌーン連載なのだが、こちらもやけに挑戦的な漫画なのだった。んーまてよ、挑戦的というか、あれだ、一部マニアックに受けるしかない漫画なのではないか。長期連載するには薄くするしかない(勧めていません)。
・・・む、無理に面白がってなんかいないんだからね!

ちなみに巻末おまけ漫画とカバーの内側の漫画は、本編よりも受けたかもしれない。たぶん同世代。

『臨死!江古田ちゃん』 瀧波ユカリ [漫画]


臨死!!江古田ちゃん 3 (3) (アフタヌーンKC)

臨死!!江古田ちゃん 3 (3) (アフタヌーンKC)

  • 作者: 瀧波 ユカリ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2008/05/23
  • メディア: コミック



なにをかくそう、私は江古田ちゃんの大ファンである。恵比寿でやったサイン会にあやうく行きそうになったくらい。
全裸なところ、ではなくて、あの冷ややかで鋭いツッコミと、冷徹になりきれない恋心に参ったのであった。
ヌードモデルネタに出てくる自称芸術家気取りの学生たちの放言がツボにはまっている。信者くんの繰り出す「恋は盲目」的発言もなかなか。男たちの「俺はスゲーことするぜ」的発言も・・・
本巻では帰国子女ネタが最高だった。(あのそっけない態度を取りたい気持ちに大共感!)
皆、自分のことが大好きなのだ。そして江古田ちゃんはそれらの「自分大好き」光線を右から左に流すことなく、全てはね返すのだ(帰国子女の場合はそっけなく流すことこそが、真っ向からはね返すことを意味している)。
光線を発した相手に、そして光線を発しているかもしれない自分自身にも。だから江古田ちゃんにはもはや何も隠すものがない。
誰もいない自室で全裸で過ごす彼女は、読者にだけは体と心を開放しているのだとも考えられる。
しかし、と私は思う。はたして江古田ちゃんは読者にすべてを開放しているのか?結局、露出が好きな女の子にすぎないのか?
いやいや、まてまて・・・トビラのページで必ずアフタヌーン読者への挑発をくりだす江古田ちゃんは、まさに読者を挑発しているのだ。全裸だし、私生活を暴露しているにもかかわらず、彼女は「それで私をわかったつもり?本当にそう思っているの?」といわんばかりに微笑むのだ。
そもそも連載をアフタヌーンでしていることが挑戦的ですらある。この挑発に一番乗せられやすい読者がいそうじゃないですか!(え、偏見?私も一読者なんだが・・・)これがモーニングだと面白みに欠けるし、KISSとかでもなにかズレてしまう。
アフタヌーン読者は冒頭の挑発4コマで江古田ちゃんに調教されつつ、最後の自虐4コマには萌えを見出しているに相違ない。
素朴な疑問だが、男性読者と女性読者のどちらが多いのだろう?私は男性読者に一票投じたい。


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