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北京的夏 ファンキー末吉/松本剛 [漫画]

北京的夏 (講談社BOX)

北京的夏 (講談社BOX)

  • 作者: 松本 剛, ファンキー 末吉
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/12/04
  • メディア: 単行本

講談社BOXから松本剛全作品復刊プロジェクト第3弾として『北京的夏』が登場しました。
これは原作が爆風スランプのドラマー、ファンキー末吉さんで、漫画を描いたのが松本剛さんです。
もとの単行本は1993年に刊行されていました。私が初めて読んだ松本漫画でもあります。(あれは96年くらいだったでしょうか。)

主人公のトオルは人気バンドのドラマーでありバンドの曲づくりの中心人物。バンドとして商業的成功を手に入れ、次々と仕事が舞い込み、メンバー主役の映画まで決定するほどの破竹の勢い。
そんな中、クライアントのためにウケる曲づくりを強いられ、本当に作りたい音楽を見失っているトオルは、作曲できないほどのスランプに陥っているのでした。そこでひょんなことから雲隠れさせられることになり、中国は北京の地に立ちます。
そこで出会った本物のロックにトオルの魂は震えます。自分が失ったものを彼らは胸に持っている、ここで何かをやらなくては!と動き始めます・・・

テンポ良く話全体が進むのは松本剛さんの持ち味というよりは、原作に基づくしっかりした構成があってのものだと思います。しかし、冒頭で朝もやの中、捨てられたテレビを仇のようにスティックで打ち続ける印象的な場面からはじまり、前夜の飲んだくれシーンを挟んだ後、浮浪者のおじさんがおどおどと話しかけてきて「俺・・・曲が書けなくなっちまったんだよ」と告白するくだりなどはとても松本漫画らしいと思います。
ファンキー末吉さんの原作をどこまで忠実に描き、どこまでが松本オリジナルなのかどうかはわかりませんが、随所にこの松本節らしき部分があります。ひとついえるのは幸せな原作と漫画なんだなーということ。どちらが強く、どちらが従属しているというわけでもなく、オイシイところを出し合っているように思えます。

この漫画では、音の出ない漫画からいかに音を出すかという難題があります。良い音、悪い音、爆音、微小な音、聞こえる音、聞こえない音を描き分ける表現の、控え目だけど豊かな情感というのでしょうか、その多彩さにも要注目です。
調子づいていた頃のトオルがジャズクラブに飛び入りし、邪魔な音を出す場面。そして再び同じジャズクラブで叩いたドラムの音。いずれも音を表現するものは描かれていません。しかし読者はその音の違いがわかります。
なめてかかった緑たちのバンドの音を聞いて戦慄する場面。驚愕したトオルの表情にマネージャーらの台詞が胸中に浮かんでたたみかけられていきます。ここにも黒豹の音がたしかに流れています。
一転して、トオルが大学でドラムを叩きまくるシーンでは音が形となって目に映ります。トオルの「叩きたい」という気持ちを全開にしたもの。何も考えずに無心で叩いている音はむしろこういう描き方が似合っているのかもしれません。
そして6月4日のライブ。中国にロックが鳴り響く場面。それから最後のSO-LONGのライブの場面。(あまり書くと読む楽しみがなくなるのでしませんが)そこで鳴り響く音は、もちろん音そのものではないのですが、読者の私の胸に鮮やかに浮かび上がってきますし、その音の微妙な違いすらわかるような気がしてくるのです。聴こえないはずのあのバンドの音が「聴こえないけど、聴こえる」のです。(「教科書のタイムマシン」みたいですね。きっと共通したものがあると思います。)

松本剛さんの漫画では、楽器が出す音に限らず、様々な音に敏感です。私は特に沈黙の描き方が好きなんです。ホテルの一室の静かな場面や、頭の中が真っ白になった時の沈黙。その時は複雑な感情が底辺に流れていることが多いのですが、対照的に周囲は静寂に包まれているのです。
例えば、トオルが再び曲を作りたいと思って、旋律をつかみ取ろうとする夜。電気ポットが小さく「ヒュウ」と鳴っています。手からこぼれたペンが「ポト」「コロコロ」と転がります。ため息。トオルの背中を下からあおぎ見る視点で描かれます。
ただ単に好きなシーンなだけですけどね。

いろいろごちゃごちゃ書きましたが、「ひっこめ!」といわれる前に終わりにしたいと思います(笑)

とにかく、この『北京的夏』が10年以上たって復刊したのは嬉しいことです。読んだことのない方はぜひ手に取って読んでみてください。
あとがきでファンキー末吉さんは、17年後の続編を書いていると云い、できれば松本さんと再びコンビを・・・ということを書いていました。ぜひ実現してほしいです!


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松本剛『甘い水』 [漫画]

甘い水  上

甘い水 上

  • 作者: 松本 剛
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/02/02
  • メディア: 単行本


甘い水  下

甘い水 下

  • 作者: 松本 剛
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/02/02
  • メディア: 単行本


漫画家の松本剛さんの最新長編です。
別冊ヤンマガで連載されていました。(私、毎月かかさず読んでました。)

北海道の道東の一都市を舞台に、一人の少年と少女の出会いを描いた少し哀しい美しい物語です。
冒頭から、久しぶりの実家で見つけた一枚の写真から回想するシーンから始まります。
この物語は男の回想をなぞるような構造となります。それがこの長編のミソであり、結末への伏線ともなるのです。

内容は各自読んでいただくとして・・・。
「回想」ということは、この物語はすでに終わったことを十年後にあらためて思い出している(読者にとっては初めて体験する)記憶ということです。
男にとってはあまり思い出したくない記憶だったのかもしれません。しかし、長い年月が過ぎたあとに一枚の写真から鮮明によみがえった記憶に、男はその少年の時には気づかなかった(気づけなかった)真実を見いだして、心が揺れ動いているはずなのです。そのことに気づいた時に私はけっこうがくぜんとしてしまいました。ここには無数の読み方があったのです。
しかし、男の現在のことやそれからのことは全く描かれません。もどかしいくらいに。巧妙すぎます。物語に描かれない余白が『甘い水』には大きすぎるのです。

少年=男にとっては回想によってわかった真実と、少年だった時の感情とが二重に浮かび上がって来たはずです。とくに最後のシーンに。

それはこの漫画の世界の物語にかぎらず、私たちが生きて行く中で、昔の記憶と向き合う時に必ず直面する事態です。(あ、なんかかたい話になってしまった)

結末は余韻が残ってしまって、物足りないと感じる人もいるかもしれません。私は、物足りないというか、その後が気になって気になって2、3日は彼らの行く末を案じてしまい、日常生活がうまく送れないほどでした。(だから石田敦子さんのコメントが痛いほどわかります。ちなみに私、『アニメがお仕事!』大好きです。)

ところが単行本が出た時にまったく関係ない短編の「二十歳の水母」が巻末に併録されていて、それを続けて読んだ時に、とても癒された気持ちになったのです。(ふだん癒しとかいわないくせに。)
この松本剛さんの全短編のなかでも屈指の名編である「二十歳の水母」は、ヤンマガ創刊20周年記念書き下ろしというふれこみで雑誌に掲載されました(これも雑誌で読んだ)。その時は20周年という歴史をひとりの女性の成長史と重ねあわせたユニークな漫画だと思っただけでした。

しかし、『甘い水』のあとにこの短編を読むと、じつはこれは『甘い水』に対するアンサーストーリーであるという思いにいたったのでした。『甘い水』は個人の記憶の内側の物語でした。
「二十歳の水母」は主人公である二十歳の女性の記憶を外側から描いているのです。
さらにいえば、女性にとってわかっていたつもりの父親を、二十歳になって回想を通して何もわかっていなかったのだ、とはじめて気づく最後のあのシーン。
これは失われた過去を全部失う前に抱きしめることができた感動的な場面です。

『甘い水』は、失われた過去をその手には(たぶん)取り戻すことができない、という喪失感が大きな主題(もちろんその対極には甘い水の美しいシーンがあるのですが)となっていたので、その喪失感が「二十歳の水母」ですくわれたのでした。

と、これらは私の勝手な読み方なので責任はとりませんが、今回、講談社BOXで新装版として出た時も同じ構成だったので、出版する側も似たような意図があるような気がします。

ああ、感想を書いていても心が痛む。なんて切ない漫画を描いてくれたのですか!
また描いて下さい!!

ちなみに私のお気に入りの場面は、水門の見開きです。北海道に有名な水門があった気がします。全然関係ないですが、友部正人さんの歌でその名も『水門』という素晴らしくゆったりした歌があって好きなのですが、それを思い出しました。

ではでは。


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松本剛『すみれの花咲く頃』 [漫画]

すみれの花咲く頃

すみれの花咲く頃

  • 作者: 松本 剛
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


漫画家の松本剛(まつもとつよし)さんの初期短編集『すみれの花咲く頃』です。
4月1日にNHKで同名ドラマが放映されるそうです。(内容はかなり異なるようですが、見なくては!)

この『すみれの花咲く頃』は、もともとヤングマガジンに連載された5話の物語です。
宝塚にあこがれる高校生の少女と、その秘密を知った(?)同級の少年の葛藤、交流をなにげない日々の情景のなかに描き出した傑作です。

なにせ、無駄なコマがひとつもありません。
しかも、一見すると無駄なコマがあるようなのです。
これってすごいでしょ。
だから、何度も何度も読み返すとたくさんの発見があります。

その他に同時収録された短編も素晴らしいものばかりです。
今回、初めて読んだ「泣かない渚」と「すこし、ときどき」も絶品でした。

松本剛さんの漫画は「あ、あった、こういう気持ち。」という感情を、ほんっとーにうまくすくいとっているのです。

気まずい思い。
わかっているんだけどおさえられない気持ち。
言ってはいけないことを思わず言ってしまったこと。
心にひっかかっている思い。
などなど。

それから、かっこわるい男の子とかわいい女の子!
主人公はたいていかっこわるい男の子で、いきがったりかっこつけたりします。でもまっすぐな気持ちを持っています。
この男の子と出会う女の子は、本当にかわいい。かわいいというのはアイドル的に可愛らしいのではなく、十代のころにクラスにいたような、大人ではないけれど魅力的な(ああうまく書けない)女の子。

「あ、いた、こういうヤロー」とか「あ、いたいたこんな子」。

(感想になっていませんね。)

で、綺麗なことばかりじゃなくて、わい雑なことも平等に描くのが松本剛さんの漫画の魅力です。
いやむしろこっちのほうを得意としているのではないかと思うくらい。
とにかくそのバランスが絶妙です。見えるものを平たんに描くのではなく、きれいなものと汚いものとを混ぜたり、分けたり・・・いや、そうじゃないですね、たぶんきれいなものも汚いものも紙一重なんですね。
松本さんの手にかかると、それが一瞬にして表になったり裏になったりするんです。

だから、松本剛さんの漫画は、ほかの漫画にあるような「これをしたい、手に入れたい、こうなったらいいな・・・(いろいろあって)・・・できた!、手に入れた!、夢がかなった!」という展開には決してなりません(けなしていないですよ、念のため)。
そうではなくて「いろいろある人々がこんがらがって、ほどけなくなった感情の糸が、ほんの少しとけた」というような物語が多いように思います。

それから安定した優しい絵柄、コマ割り、という印象がありますが、実はけっこう表現的に冒険したり実験的なことを試みている気がします。それを表立ってやらないところがまたにくい!

そろそろ新作・・・楽しみにしています!!


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鳩山郁子さん個展「BRANCH SCHOOLDAYS〜リンデン坂上スクール目白分校展」 [漫画]

 鳩山郁子さんの個展に行って来ました。

 場所は新宿区目白のとある一軒家。
 本当に普通のお宅の一部を使って、鳩山ワールドをつくりあげているのです。
 お庭に入った瞬間から、もう鳩山さんの漫画の世界。
 灯籠、古い日本家屋、机、椅子、蚊取線香・・・。

 許可をいただいて、お庭の写真をちょっと撮りました。一部こんな感じ。
 もともとここは雑貨屋さん(「cocoa de co 」ギャラリー)なのだそうですが、とても雰囲気のよい場所でした。

 展示の内容は、鳩山さんの名作『青い菊』所収の「Un Eatable sandwitches 〜あるいは藍晶石譜〜」に出てくる、リンデン坂上スクールの分校を再現するというコンセプトで、絵やオブジェ、凧などが所せましと充満していました。

青い菊

青い菊

  • 作者: 鳩山 郁子
  • 出版社/メーカー: 青林工芸舎
  • 発売日: 1998/05
  • メディア: コミック

 あいかわらず、私の好きな世界がそこにありました。

 午前中に一度行った時は、まだご本人が来ていなかったので、一旦お昼ごはんを食べにいきました。
 その後、妻の提案で、途中でガラス瓶を入手し、先日行った伊奈の薔薇園でこども1号プーが拾ったドングリをその中に入れて、再び会場へ。

 次は鳩山さんとお会いすることが出来ました。

 五年以上前の渋谷の個展でお会いして以来だったので、少し緊張もありましたが、なんと鳩山さんは私を覚えていて下さったらしく、名前を呼びかけられました。ものすごい感激。

 鳩山さんは五年前となんらお変わりのない美しい姿で、優しい心遣いでおもてなしをされていました。
 五年間で2人も増えたこどもをみて、かなり驚いていましたが。たははは。

 ガラス瓶入りのドングリをプーの手からお渡ししたら、喜んで頂けました。ただのドングリですが。
 帰り際に、こどもにお菓子までいただいて、うれしかったー。

 静かな住宅地の静かな個展の静かなひとときに、こどものわめき声が交じって、他の見学されている方が不快にならないか、場の雰囲気をぶちこわしにしやしないだろうか、とびくびくものでしたが、皆様、嫌な顔ひとつせずにいてくださったので、本当に感謝するばかりです。

 この時流れていたBGMはグレン・グールドのバッハ、ゴールドベルク変奏曲(だったかと)。これは1回目の録音でしょうか。ゆっくりだったので。うちには2回目の録音しかありません。

 ところでうちのこども2号は、鳩山さんの漫画にでてくるシャーロット・リンという丸々したキャラに似てるということで同意が得られました。シャーロット・リンは美形バージョンもあるのですが、丸々バージョンも可愛いのです。ほっぺの具合がそっくりで・・・
 新作『シューメイカー』にサインをいただきましたが、シャーロットのイラストまで描いて下さいました(私の名前でいただきましたが、後で考えたら、この本は妻が買ったものでした。すまぬ。ゆるせ)。

 ということで、こども2号はシャーロット(またはシャルル)と名付けることに(勝手に)しました。おやばか。

 二人の子を連れて行った大変な遠出でしたが、嬉しいことばかりでした。

 なんだか元気がでました。

 がんばるぞー。

 追記

 その後日、なんと会場の庭に水琴窟があることが、鳩山さんのHPに書かれていました。
 も、もう一度行きたい・・・。


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田舎幻想をぶっとばせ 『リトル・フォレスト』五十嵐大介 [漫画]

 田舎幻想というものがあります。

 田舎に暮らそう、そこには人間がもともと持っていたはずの生き方があるのだから。
 日本人が脈々と伝えて来た昔ながらの生活の智慧があり、それを取り戻すのだ、と。

 こういう田舎幻想が、私はあまり好きではありません。
 よく、作家とか画家とか音楽家とか陶芸家とか市民運動家とかが島に住んだり、自給自足生活を始めたりするのを聞いたりします。そうすることの必然やなりゆきや事情があるのは十分承知しているつもりです。それに、そういう生活が楽しそうだと思っていることも白状します。
 それにもかかわらず、どこかで嘘臭さを感じているのです。

 自然に寄り添って生きるのが本当だ、とか都市生活は不毛だとか、そういう蔑視を感じるせいでしょうか。都市生活者を見下した目線があるように思われて仕方がないのです。これはひがみかもしれませんが。
 けれど、だから私は田舎幻想というものが好きではありません。
 のっけから変な話で恐縮でした。

 さて、五十嵐大介の『リトル・フォレスト』です。

リトル・フォレスト (1)

リトル・フォレスト (1)

  • 作者: 五十嵐 大介
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2004/08/23
  • メディア: コミック

 これは、街から逃げるように「小森」へ帰って来た一人の少女の田舎暮しの話です。暮らしといっても、ほとんどが「食べる為に収穫し、また食べる」場面を描いています。それがまたいちいち美味しそう(じゃないものもごくたまにあるけど)なのです。
 季節を通して、少女=いち子は自活しているように見えるけれども、実は小森に根付いて生きることを迷っています。それを村の仲間にずばり言い当てられたりもして、口ごもったり。結局、流れやすい所に流れただけではないのか。そんな思いを抱きながら、一年また一年を過ごしていく。

 いち子にとって小森での暮らしは厳しいものでもあり、楽しいものでもあります。一所懸命に生きるにはもってこいの場所なのです。しかしある時「その場その場を一所懸命でとりつくろって逃げているだけなのでは?」と問われ、彼女の心はまっぷたつになります。もちろんいち子自身もうすうす感付いていたことなのですが。
 そして逃げて来たことを真正面から見つめようと決心するのです。

 物語の最後はみなさんに読んで頂くことにします。いち子の着地点が最善だったかどうか、私にはわかりません。
 しかし、それはいち子が決めたこと。その一点においては何もいうことはありません。人の生き方に疑いや否を唱えることは簡単に出来ますが、その資格は誰にもないはずです。

 誤解の無いように一応云っておきますが、この物語の終わり方はとても清々しいものでした。

 五十嵐氏の漫画はデビュー時から大好きでずっと読んでいますが、嘘を描くということがまずない漫画家のひとりです。これは何かの幻想にとらわれることが無いという意味です。

 どこに生きていても、人間らしく生きることは可能だし、当たり前だと思うのです。

 田舎幻想をぶっとばせ!
 『リトル・フォレスト』はこの幻想を鮮やかにぶっとばしてくれます。


鉄ヲタ・ニューウェーブ『鉄子の旅』 [漫画]

 『鉄子の旅』1〜4巻を読んだ。
 鉄道オタク、マニアと呼ばれる人々は世の中に意外と多く存在している。
 かくいう私の友人にも(本人は絶対に認めないだろうが)鉄ちゃんがいる。
 付け加えておくと、私は時刻表を調べるのも億劫な、ただの凡人だ。

鉄子の旅 1 (1)

鉄子の旅 1 (1)

  • 作者: 菊池 直恵
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2004/11/30
  • メディア: コミック

 自動車好きの人にはなぜだか格好いい印象がある。しかし、鉄道オタク(鉄道好きとはあまり呼ばれない)にはそんなスマートな印象は与えられない。何故だろうか。
 自動車の内部構造や部品の名前に詳しくて、良い中古屋とも懇意で、日々改造に熱心な人間がいたとしよう。自分の車を写真に納めて誰かに自慢げに披露するかもしれない。『モーターマガジン』を毎号買っているかもしれない。
 そんな人間が、たとえ普段はちょっとオタクっぽい雰囲気を醸し出していたとしても、話題の中で自動車のことに異様に詳しい人だと分かった瞬間に、彼は「ちょっと頼れそうな男」に見えるような気がする(個人的見解です)。
 しかし、だ。普段は快活で人付き合いもよく、明るくさわやかな人間がいたとしよう。ある日、彼が電車のダイヤに精通し車両の部品の名前に詳しくて、乗り継ぎの研究に熱心だということが分かってしまう。電車の写真を誰かに披露する、なんてこともしてしまうかもしれない。『鉄道ジャーナル』を毎号買っているかもしれない。時刻表も毎月買っているかもしれない。
 その瞬間、彼は「実はかなりオタクな男」だと思われてしまうに違いない(たぶん皆そう思う)。
 何故だろうか?何故、同じじゃないのだろうか。

 電車が好きだなんて子供みたいだから?いやいや子供は自動車だって好きだ。子供時代を引きずっているなどという浅はかな考えでは理解されない。

 『鉄子の旅』に出てくる横見さんは、きっとそんな理不尽さを身をもって理解しているに違いない。だから必死なのだ。鉄道オタクを『鉄ヲタ』と改称し、格好よくさわやかなキムタクと同列に扱われるようになるよう、日々研鑽しつつ列車に乗っているのだ。

 漫画家のキクチさんは鉄道オタクを迷惑がる人々の代表として自分を描いている。巻を追うごとにその非難の舌鋒はゆるゆる鈍くなっていくが、それは知らないうちに自分が鉄道の旅を楽しんでいるという気持ちに嘘をつけなくなったのだと読み取れる。自分が鉄道オタクの領域にはまりこんでいることを半分自覚しつつ、抵抗しているのだ。
 だから、4巻までくると鉄ヲタへの突っ込みではなく、横見さんというキャラクターへの突っ込みへすり変わってしまう。この得難いキャラクターを突っ込むことで生まれる笑いが、この巻ですっかり板についたのである。嫌みも無く、ただただ面白く、笑える。

 それにしても・・・毎日、通勤で利用している駅も通過するだけの駅も、全部横見さんが降りたことがあるのだと考えると、ちょっと・・・すごいね。
 ホームに横見さんの幻が見える・・・


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