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『96時間』 ピエール・モレル [映画]


96時間 [DVD]

96時間 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: DVD



この映画を見始めてしばらくの間、私はずっと恐怖を感じていた。
だがその恐怖は、人身売買組織のあまりにも手際の良いシステマティックな手口や廃人となった娘たちの姿に感じたものでも、リーアム父さんがバッタバッタと敵をなぎ倒していく鬼気迫る姿に感じたものでもない。
つまり、これが全部リーアム父さんの妄想なのではないか、映画のラストでリーアム父さんがこの妄想から目覚めてしまうのではないか、という恐怖だ。目覚めて冴えない現実に戻されてしまうのではないか、という。
それほどまでに、この物語は「娘を持つ父親」の描く妄想の型に忠実だった。残念ながら「娘を持つ父親」は多かれ少なかれこのような妄想に溺れているものだ。
自分の娘が外で遊んでいてボールを追って道路に飛び出したら自動車に轢かれやしないか、娘が歩道を歩いている時に居眠り運転のトラックが突っ込んできやしないか、娘が通う学校に凶器を持った変質者が乱入してきて被害に遭わないか。
これがエスカレートすると、娘が地震や雷や火事などの災害に遭遇した時に守ってやれるか、娘と自分が飛行機に乗っている時にハイジャックされたらどうするか、娘が誘拐されて身代金を要求されて通報したら命はないと脅されたらどうするか、娘が崖から落ちそうになった所を手をつかんで引っぱりあげられるだろうか、娘が宇宙からやってきた異星人のUFOに浚われたらどうやって救出しようか、などと考えはじめる。ほとんど妄想の世界だ。
そして最も肝心なところだが、このシミュレーションの中では父親は必ず娘を助け出すものと決まっているのである。そこまで保証されるからこそ安心して妄想に浸ることができるのである。「娘を持つ父親」という人種はそういうものである。リーアム父さんのいささか神経質にも思える心配性はごく当たり前のことであり、決してうざったいものやしつこいものや愛情の押しつけなどといった「キモい」ものでは断じてないのである。
それでいくと、この映画はいわば「娘が初めての海外旅行で人身売買組織に浚われ、4日以内に助けないと永遠に戻ってこない」という難易度の高い設定を妄想しているともいえる。彼が無敵なのも、さしあたって全て妄想だと思えば不思議なことはない。
まず娘の歌手という夢を「自分だけがそれを理解し協力している」という風に思い込むリーアム父さんが痛すぎ切なすぎ涙なしには見られない。女性歌手のガードを引受けるのも娘に尊敬されたい一心でしかない。彼にとって冷静な分析と予測はお手のものだ。仕事の前日には様々なシミュレーションをし終えていたと思われる。暴漢に襲われそうになるところを助けてそのお礼をされるのも、きっと想定の範囲内だったのだろう。成功者にアドバイスを求めるのも予定どおりの行動だったに違いない。そして旅行に行くという話を聞いた瞬間に断固拒否しつつも、すでに彼の脳裏にはありとあらゆるシナリオが浮かび、いかなる状況にも対処できるようなシミュレーションが行われていたに違いない。だからあれほどまでに迅速に冷静に娘へ指示を送れたのだ。
こうして私は冒頭20分の時点で恐怖を感じつつも、すでに彼の友人になれると思い込んだ。
元妻は「彼女を自由にさせないと離れていってしまう」などとしたり顔で彼をたしなめる。反論できずにいたリーアム父さんは、しかしやがて、俺のいうことが一番正しく娘への愛も本物なのだ、といわんばかりの救出劇を繰り広げる。娘の命を脅かす者はたとえどんな理由であろうと倒すほかはない。それを潔さというのは少々はばかられるが、父親が娘を助けるのは正義でも理屈でも見返りを期待するのでも何でもない。それは至極当たり前のことなのだ、と戦う彼の姿が表明している。だからそれを邪魔する者は等しく娘を殺そうとする者なのだ、と。昔の友人?の妻?ーーむしろ子供に手をかけなかったのは彼の信念だと思うべきだろう。ビジネス?交渉?ーー「だが容赦はしない」、ズドン、である。かっちょええ。
世界中に溢れかえっている「間に合わなかったもの」「手遅れだったもの」「もう届かないもの」の哀しみを一身に背負い、全てを間に合わせ、引きずり戻し、救い出す。リーアム父さんがやったことはそれだけだ。たったそれだけのことが今この世界にはこれほどまでに足りていないのだろうか。
「お父さんは心配症」といえばそのとおりだ。電気屋に20回も通って吟味した誕生日プレゼントのカラオケセットを買うところから、彼の無限大の心配はすでに炸裂している。神経質なほど娘に電話連絡を強要するのもそうだし、組織の手に落ちる寸前のいたって冷静な指示も同じ水準にある。表面が異なるだけで、リーアム父さんのテンションはほぼ変わらずハイに保たれている。心配症も暴力も等しくハイテンション。そして娘が素で、つまり父さんがいない場所で「父さんに言ってない」と友人に訴える場面こそが、それまでの父の独善的だったハイテンションが観客のものとして共有された瞬間である。ハートがズキュウウウウウン、なのである。それでみんながみんな、そろいもそろって怒濤の救出劇へと出発したのである。
だからこそ私は最後に歌手の名刺を父さんがその手で破り捨ててしまうものだと予想していた。しかし、その予想は見事に外れた。最後に名刺を破り捨てることで「まともな」現実に回帰させるだろうという私の浅はかな予測は外れた。それどころか危険が満載で苦しみの多いはずの歌手の道へと娘を導いてしまった。なぜか?
これを単純にやっぱり親バカだった、というのは容易い。娘の本気だって疑わしいものだからだ。しかし彼が名実ともに娘の父親だった時代が彼にとっての真実の時であったとすれば(自分の仕事は秘密だったのに)、その頃の娘の夢こそが彼にとって本当の夢に他ならないのである。その夢を叶えてあげることが彼の望みだった。それだけだ。
「娘だけいればいい」と宣う父親の言葉はつまり裏返せば「そばにはいつも俺がいる」ということである。彼がいれば娘が完璧に安全だというのは今回実証された。娘が一度は夢見た可能性を切り開き、それを守り続ける父親という存在。父親であれば当然そうするものだ、ということを証明するのにこれほどまでの遠回りと破壊と殺戮を行わなければならなかったのだ。
最後の最後までリーアム父さんは美化された妄想からくだらない現実世界への着地を拒んだ。そんな「まともな」現実は望んじゃいない。そして完全に「望みどおりの」現実を手に入れた。それは妄想を徹底して突き通すことで逆説的に妄想世界を現実世界へと(力技で)置き換えてしまったかのように思える。彼の妄想は彼の拳と同義であり、妄想、拳、銃、妄想、点滴、宣戦布告、妄想、拳、銃、妄想、と連打して、この映画のありえない妄想をボコボコにすることで、あるべき形に変形させて「望みどおりの」現実に着地し幕を閉じたのだ。
そうだ、リーアム父さんは妄想世界を完全に我がものにーー「俺の現実」にしてしまったのだ、あの徒手空拳ひとつで。有無をいわせず。
ここで私はこの感覚が何かに似ていることに気づいた。なんだっけ、この誰にもできないことをずばずばやってのけて、通った後には何も残らないっていうのは。
しばらくたって思い出した。ーーこれは、うえけんの「さわやか君」だ。
誰もが口には出さないが、心の底では思っていることをずばずばとさわやかに真実の言葉を吐き出しながら状況を破壊して去っていく「さわやか君」なのだ。リーアム父さんの場合、武器は言葉ではなくて暴力だが、その破壊力は同等だ。むしろ剥き出しの言葉が生々しい現実を暴くのと同じ破壊力を視覚化・映像化したものだと言った方が近いかもしれない。彼の後には跡形もなく、何も残らない。
「さわやか君」に憧れる人々の目はきらきらと輝いている。リーアム父さんに憧れる私の目もまたきっときらきら輝いている。そこまで自覚して、わーははと笑って映画館を出るのが正解なのかもしれない。

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『Dr.パルナサスの鏡』 テリー・ギリアム [映画]

バンデットQ、ブラジル、バロン、フィッシャーキング、12モンキーズ、ラスベガスをやっつけろ、ローズ・イン・タイドランド。
牽強付会なのは承知の上で、どれにも共通しているのは、自分の見ている世界が誰かの夢かもしれないということ、あるいは誰かの夢の中に自分が生きているかもしれない、という存在の危機感というやつなのかもしれない。その挟間に何かの拍子ではまりこんでしまった人々が右往左往する。気付かなければ疑問を抱かずに生きていけたのに、疑問を抱いたばっかりに不幸へと転落する。結局どちらにも帰属できずにとりのこされる。だから、どの映画も終盤にむかって股の辺りがぞわぞわするような不安をあおる。かと思うと、そんな不安を笑い飛ばすような唐突なギャグが「ごきげんよう」とばかりにどーんと降りかかる。
この新作もまた、ある意味こうした存在や世界への感傷とナンセンスなギャグと不条理を混ぜ合わせたものといえば、そうかもしれない。
しかしこの映画は不幸である。主演男優の不慮の死が、という意味ではない。むしろヒース・レジャーの死はこの映画にとって酷い宣伝以上の効果はなかった。これは不幸である。さらに代役の俳優たちがそろって人気者だったということ、これらも酷い宣伝以上の効果はない。一本の映画にとって中身以外の部分で喧伝されることは、それがどんな内容のことであれ不幸だといわざるを得ない。たとえば「映像の魔術」とか「想像力の復権」とか、あまり頭を使わずに使用されるこうした文句。おそらくこれまでギリアムの映画を一度も見たことのない観客がこの文句から期待し想像するものと、実際の映像はこれっぽっちも重ならないだろう。そして「想像力の復権」は押し付けがましく感じられることだろう。耳に聞こえが良いこうした文句や豪華俳優陣、スキャンダラスな製作過程・・・あまりに不幸な状況である。これこそ、まるでギリアム自身の作り出す世界のような寒々しくて、薄っぺらで、静寂に満ちた滑稽な状況である。
もう一つ不幸なことがある。もしかしたらギリアムは映画そのものよりも目の前の状況にこだわってしまったのかもしれない。つまりヒースの映像を生かそう生かそうとするあまり映画としてはヒースを殺してしまっているように思えるのだ。そして映画そのものもそちらに引っ張られてしまい、結果、全体のバランスを欠いてしまったのだろうか。悪く言ってしまえば、遺されたものを映画のためにばっさりと切り捨てることが出来なかった、という風に見えてしまう。もしもヒースが生きていたら・・・というのは反則だけれども、ヒース・レジャーが一人でやりきった映画を見てみたかったと思うのは無い物ねだりだろうか。それはどうしてもヒースの演技が見たかった、という意味では当然なくて、あるはずだった映画、無事にできあがるはずだった『The Imaginarium of Doctor parnassus』という映画を見たかったということだ。だから、これがヒース・レジャーという希有な俳優が最後に出演したアレね、というような言われ方をされないことを祈る。ただし、ヒースの演技は風格のある素晴らしいものだったことは保証したい。

怪しげな興行をうっているが見向きもされない馬車の一行が、ある一人の吊るされた男と出会う。悪魔との契約で娘を引き渡す前に5人の人間を鏡の世界に導かなくてはならない。一行は吊るされた男の尽力で賭けに勝ちそうに見えたが、実は男には秘密があった・・・
・・・みたいなチラシにあるようなストーリーそのままでいいから、あとは別世界の鏡の中の世界をナンセンスさを切って貼ってつなげるだけで傑作になったのではないか(うだうだとああでもない、こうでもない、と痴話げんかめいた場面を延々と見せられるのは流石に辟易した)。
『バロン』がまさにそういう映画だったと思う。意味がありそうでほとんど無い世界をいくつも貼付けてつなげて、そしてそれらが舞台を通じて現実と虚構のはざまを行き来する。それこそ「想像力の復権」を押し付けることなく軽々と体現している映画だった。
大体、「想像力」が「復権」を唱えることくらい胡散臭いことはない。想像力なんて所詮、個々人の持つものでしかない。他人の想像力を無批判に受け入れることが、どれほど悲惨な事態を引き起こしてきたのかは例を挙げるまでもないだろう。多かれ少なかれ世界は想像力の覇権争いで成り立っている。これが私の世界だ、というヒースの台詞も象徴的だ。そう宣言する時の彼はまさに想像力によって娘を征服しようとしていたではないか。それが諸刃の剣だということもギリアムは重々承知だ。ヒースの世界に従えば、地位と名誉と財産が手に入る。なんという分かりやすい教訓。それに従わなかった娘は最終的に自身の想像世界を選択する。それとてインテリアのカタログの中のもの、小市民的なこじんまりとした幸せな家庭でしかないが、彼女はこれに満足しているようだ。しかしこれは「自分の想像力を自分で選んだ」だけのあくまで想定の範囲内での満足であり、いくばくかの皮肉も感じられる。この結末は一見ハッピーエンドに見えるが、とてつもなく絶望的にも思える。
娘が小さいながらも幸福な家庭を手に入れることや、パルナサス博士の舞台興行が最終的に(莫迦みたいに笑える)紙芝居になってしまうことは、個々人のもつ想像力が時代とともに卑小に幼稚に貧相になっていく、という風に解釈するべきものなのだろうか。想像力は紙芝居で表現するくらいの些細なものでしかない、と?あるいは、これは結局縛り首になる男が死の直前に見た夢の話だったのかもしれない。もしかしたら想像力というやつは、それくらいのものにしておいた方が良いのだろうか。マッチ売りの少女のように悲惨な現実を隠蔽するためのささやかな愉しみとして?まさか。だとしたら『バロン』よりも縮小しているよ。博士と悪魔のように不毛な砂漠で馴れ合って茶飲み話をしている場合じゃない。その先へ進もうとするのが想像力の復権じゃないの。

冒頭のパルナサスの馬車が変化して舞台が現れてくる場面は悶絶。あの下から見上げているような構図ね。あれだけで満足した。舞台の構成というか配置は完璧。素晴らしい。ただの動きのない画面なんだけど、あれこそ想像力を刺激する。馬車の中は居心地がよさそう。二階建てバスみたい。あれならずっと旅をしながら住んでもいい。
逆に鏡の中の世界は、最初の書割りの森などはよかったけど、総天然色の背景は格別に独特というわけではない。気球とかはしごとか手作り感のあるものはチープに扱われてて好ましい。ポリスマンのダンスはくだらなさすぎて笑えた。あれが風刺のつもりなら笑えないけど。
ギリアム映画にしては珍しく導入が親切すぎてかえって気持ち悪い。あんなに世界の設定説明に終始しているとは思わなかった。と思うと、終盤はやや突っ走りすぎ暴走ぎみだし。全体のバランスはあまり良くない。鏡の世界で顔が変わるのはやっぱりどう考えてもこじつけ。とってつけた部分が見えすぎてしまう。そのせいか、場面場面のつながりも切って貼って、が目に付いたように思う。
なんて言い始めると色々あるのだけど、この映画は、もうこっち方面には来ないのかと思っていた私にとっては嬉しい復活だった。準備中のドン・キホーテ物ではさらに突き抜けて欲しいと願う。ドン・キホーテ役も決まったという噂だしね。結局わくわく期待してしまうというのは・・・これがつまり義務とか納税ってことなのだろうか。
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『人情紙風船』山中貞雄 [映画]


人情紙風船 [DVD] COS-031

人情紙風船 [DVD] COS-031

  • 出版社/メーカー: Cosmo Contents
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28歳の遺作となった映画である。だが、この映画を見るのにそんな知識はいらない。
素晴らしく安定した構図の画面と、左右に調和が取れた人間の動き。建造物と河岸のレイアウトと奥行き。その美しく端正なたたずまい。明らかに舞台に敬意と対抗意識を持って映画でしか描けない画面を作ろうという野心に満ちている。舞台の袖から誰かが出てきて、反対の袖へ誰かが消えていく。あるいは挑戦的なまでに奥から全面まで走ってくる人物がいる。画面の快楽というものを確信している。目線の低さもまたかぶりつきだと思えば、この上なく贅沢なものだ。これは誰もが最高の席で同じ場面を見ることができる魔法の光でできた映画というわけだ。観客はその幸福の画面を飽きることなく眺めるだけで良い。このうえなくまぎれもない至福の瞬間に浸れる。
物語は雨上がりの快晴の日から始まり、雨の日と晴れの日を繰り返して、また快晴の朝を迎えて終わる。暗い室内からまぶしいばかりの屋外へ印象的に切り替わる。3つほどの人情劇がゆるやかに絡み合い、ほぼ同時に結論が出される。その幕切れの切れの鮮やかさがかえって不穏な空気を残すことになる。
紙風船が画面の端に映る、その軽妙さとはかなさ。野暮ったい男との対比。粋な男との類似。かけおちへの希望。命のメタファー。そんな風にいかようにも仮託することができる。また仮託しなくとも紙風船が画面にある間は重苦しさはいっとき解放されている。と同時に、壊れやすいものとしての脆さが充満している。この目に見えない空気の動きは最後に町の人々の生活に欠かせない川に、その輝きに飲み込まれる。
こうやって、動かないものと、動くものが同時になにがしかの見ることの喜びを与えてくれる。
これはそういう美しい映画である。
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『バットマン・ビギンズ』『ダークナイト』クリストファー・ノーラン [映画]

さてさて。我が家にPS3がやってきたので、ブルーレイも観られるようになった。そこで前もって購入してあった『ダークナイト』をそのこけら落としにしたのであった。

バットマン ビギンズ [DVD]

バットマン ビギンズ [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
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まずは『ビギンズ』をおさらい。
バットマンはなぜゴッサムシティの治安を守り続けるのか?
バットマンはなぜ最新の科学兵器を駆使するのか?
バットマンはなぜそもそもコウモリなのか?
漫画の世界とくにアメコミヒーローにとってこれらの「なぜ?」はとるにたらない疑問である。
ブルース・ウェインは両親を街に巣食う悪党に惨殺されたから悪と戦うのである。
ブルース・ウェインはお金持ちの御曹子だからさまざまな兵器を開発し実用化できるのである。
ブルース・ウェインはコウモリにトラウマがあるからこそそれを克服し己の力の象徴としたのである。
これだけで十分な説明になる。
しかしこれを現実世界に置き換える時には、さまざまな嘘臭さを乗り越えなければならなかった。
両親を殺された人間が悪と直接戦うなどということはほとんど無い。
いくらお金持ちだろうと兵器を開発する技術も知識も無い。
コウモリに至ってはおふざけにしか思えない。まともじゃない。
ノーランの『ビギンズ』ではこうした、バットマンに関する「なぜ?」に逐一回答を与えていた。ウェイン産業の応用科学部から洞窟の歴史的な由来まで事細かにそれなりの理屈によって「ありそう」な水準で設定を作り込んできたのである。
さらにブルース・ウェインという人間が形成されるまでのパーソナルヒストリーをもほぼ物語の大半を費やしてコンパクトに語っている。それは漫画のページをパラパラめくって読み進める感じにも似て、ブルースがどのように人間離れした身体能力と精神力を鍛えたのか、あるいはコウモリの恐怖をどのように克服したのかが切れの良い回想で語られる。そしてこれらの条件が整った時に初めて荒廃し堕落したゴッサムシティを救うためにバットマンという恐怖の象徴が生きてくることが、何重もの納得の上で観客に明らかにされるのである。
それからブルースは夢の実現に向かってアルフレッドやフォックスらの助けを得ながら、一人作業を黙々と行うのであった。ティム・バートンのバットマンの時も思ったが、この何不自由ないお坊ちゃまがしこしこと作業をする姿は途方もなく寂しい。寂しさと同時に私が思い出すのは子供の頃に遊んだ秘密基地のことだ。すべての少年に共通するこの秘密基地への憧憬がこの作業風景に凝縮されている。秘密の基地で悪と戦うために秘密兵器を作って準備している、このみじめで寂しげで、とても楽しげな場面。
そういうわけで『ビギンズ』は新シリーズの設定紹介と、そこから派生した事件の収束までを描いて終わることになる。この事件がまたアメコミ的(パルプSFちっく)なもので微笑ましい。水道に混ぜた毒ガス液をマイクロ波放射器で気化させて街中を混乱させるって、いつの時代の悪だくみなのか。いや好きだけどこういうの。
バットモービルにもバットシグナルにもやっぱりそれなりの存在意義が用意してあって不自然さを感じさせない。この映画の中で唯一不自然さを感じるのは、そのあまりにも理詰めな理路整然としすぎた過剰な世界観のありようだ。何もかも辻褄が合い、何もかも矛盾が生じないこの世界では、当然バットマンが夜を跋扈しようがビルの屋上をモービルが疾走しようがおかしくない。頭では分かるのだが、どこかで違和感があるのだ。たとえ理路整然としていてもおかしなものはおかしいのではないのか?と。
唯一ゴッサムのゴッサムらしさを体現していたモノレールーー貧富の別なく使われる均衡の象徴としてのモノレールは、その世界のありようからはみだしたことによって最後に破壊されてしまったとしか思えない。つまりそれは破壊と混乱の災厄がこれからこの街に降り掛かるという予見なのである。従って次作には出てこない。
その災厄とはいうまでもなくジョーカーだ。

ダークナイト [Blu-ray]

ダークナイト [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: Blu-ray


そして『ダークナイト』だ。IMAX用カメラで撮った画面がブルーレイで最高解像度を達成するというのに意味もなくわくわくした。画面すれすれまで近寄ってまじまじ見てしまった。き、綺麗だわ。
その綺麗な画面でこの超極悪な『ダークナイト』を見る幸せ。
冒頭からノンストップ。小悪党から大悪党まで入り乱れる。かと思えばはた迷惑な偽物バットマンや小悪党に成り下がったスケアクロウが小競り合い。バットマンが登場し建物を破壊して去っていく。ここまで善良な人々がいっさい出てこない。善良って何、といわんばかりだ。そこに光の騎士が登場し悪党たちを一網打尽にしようと試みる。バットマンも香港まで飛んで悪党を引っ張ってくるいつもの強引な手腕を振るう。実は新しい機械を試したかっただけなのでは、という疑惑。フォックスの狸ぶりも見ていて痛快である。
ところで前作に比べてクリスチャン・ベールの顔が悪人顔になったのではないか。何かこう、ダークサイドに堕ちたような険しさが感じられたのは気のせいだろうか。
前作で抱いた疑問ーー理路整然としていてもおかしなものはおかしいのではないか?という問いを、あたかも「その疑問は織り込み済みだ」とせせら笑うかのようにバットマンのレゾンデートルを脅かすジョーカーが鮮やかに登場する。とたんに世界は混沌と化す。ジョーカーの言の葉が織り成すあやうい空間に変化してしまうのであった。
かつてジャック・ニコルソンが演じたジョーカーのトリックスターぶりは最高だった。世界をおちょくり莫迦にしてけむに巻く。無邪気さのお化けだった。手のつけられない強大な力を持った幼稚な心。それはティム・バートンが作り上げた架空の都市ゴッサムシティにおいては無敵のパワーを誇っていた。当事者からしてみれば相手にしたくはないが、傍観するならこれほど面白い怪人もいない。
だがヒース・レジャーのジョーカーは傍観者にとっても相手にしたくない奴だった。(全くの余談だけどヒース・レジャーの英語の記事をネット上で訳したページを見るとledgerが「総勘定元帳」と訳されてしまうのはどうにかならないのか。)
以前のジョーカーを例えていうなら舞台上で(脚本どおり)ハチャメチャをやらかすヤンチャ野郎(の役)だとするならば、今回のジョーカーは客席まで飛び込んで(アドリブで)やりたい放題し尽くすのっぴきならないアナーキー野郎(ガチ)である。
彼の悪意はバットマンやゴッサムシティの住民たちのみに向けられているのではない。私たちにもその切っ先を喉元に突き付けているのだ。いや悪意じゃないな、彼の言葉は隠蔽されているある種の真実をえげつなく差し出しているのだ。それも究極の二択として。ジョーカーは常に二択を迫る。俺と組むのかバットマンにやられるのか、マスクを脱ぐのか市民を殺されるのか、恋人を助けるのか光の騎士を助けるのか、起爆装置を押して助かるか押されて死ぬか、悪に堕ちるのか正義を貫くのか。
トゥーフェイスのコインとジョーカーの二択は実は表裏一体だったのかもしれない。コインで決める行為は運で左右されるのではなく、実際はその行為自体が誰かに選択を委ねてしまうことに他ならないと暗に示している。ジョーカーはその上をいった。誰かが正しい選択をしてくれると人には思い込ませつつ、その実すべてはジョーカーの掌で弄ばれたのだ。
悲劇はジョーカーが直接下さないところで起きた。ジョーカーは悲劇への起爆装置を作ってその辺に置いておいただけだった。押したのは他の誰かだったのだ。だからこそ、最後に自分の手で爆破を試みた時には失敗することが運命づけられていたともいえる。
愚かさだ。ジョーカーは他人の愚かさを溺愛している。自分の存在意義を逡巡していたバットマンはそこにつけ込まれた。最愛の人間を永遠に失った。
だからバットマンは謎の自警団から犬に追われるならず者への転落を選んだのだ。ジョーカー不在の闇を一手に引き受けて、より深い闇へと消えていったのだ。

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『丹下左膳餘話 百萬両の壷』 山中貞雄 [映画]


丹下左膳餘話 百萬両の壺 [DVD] COS-032

丹下左膳餘話 百萬両の壺 [DVD] COS-032

  • 出版社/メーカー: Cosmo Contents
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十数年ぶりに見たが、いやー可笑しい。小さな笑いが積もり積もる快感。
前半のドタバタ劇もさることながら、後半の起きている状況自体が奇妙きてれつなものと化してしまうシュールな情景がやはり見事。百萬両の壷をめぐって起きる人間模様から、最終的には江戸じゅうに張られる「壷求ム」、壷を抱えた長蛇の列、積まれた無数の壷、という風景を生じさせることになる。
登場する誰もが思惑をことごとく裏切られてしまうが、それが次の展開に結びつき、人々は駆けずり回り、物を散らかし、嫉妬し、家出し、決闘する。「ま、負けてくれ」の身も蓋もないところも素敵。武士道の精神をこけにしている。
登場人物の台詞は想像以上にモダンな印象を受けた。この映画は1935年作だが、現在つくられる時代劇のほうがまだ「らしい」しゃべり方をするだろう。もちろん「らしい」から良いわけではない。人々のとがった台詞とは裏腹のほんわかとした画面が雄弁であり、その繰り返しがユーモラスな雰囲気を作り上げている。観客が「またあのパターンがくるぞ」と思っていると、期待どおりにそのパターンが現れる。そしてそれが嫌な感じではない。
男と女に加えて子供の存在がほどよい緩衝剤である(というか、子供がいるから男女の諍いが起きるといったほうが正しい。『赤ちゃん教育』のベイビーみたいなものか)。
で、壷は見つかる(というか最初から最後まで徹頭徹尾画面に現れているのだ)が、人々の思惑が収束した結果、なんともいい加減でおおらかな結末となる。この結末になぜだか私はほっとする。
最後の幕切れ場面は鮮烈。こんなに爽快なのはなかなかお目にかかれない。物語は落語を下敷きにしているらしいが、最後の投げやりな行為が見事な下げになってしまうような、そんな幕切れ。最後まですっとぼけたところが吉。

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『崖の上のポニョ』 宮崎駿 [映画]

とんでもない雷雨と豪風が町を襲った次の日、『崖の上のポニョ』を観に行ってきた。なんともタイムリー?
話の筋とはまったく関係なく、見ていてじーんとして泣きそうになってしまった場面がいくつもあった。べつに感動的な場面ではないのだが。しかし、うごめくあの濃い画面に圧倒されながら、心の琴線(べたな表現ですが)をぶちぶちぶちぶち、と切断するそうした瞬間があった。(触れるんじゃなくて、切断。突き破られる感覚)
宮崎駿は進化している。前2作での成果の手応えを感じながら、ますます自在にアニメーションを生み出していく。あの濃い画面を全編に渡って動かすために必要なシンプルな物語。想像力の海。
そうだ、これすべて海なのだ。海からまとまった形を作ろうとすれば水を器に入れるしかない。しかし今回は海は海のままだ。
人工も自然も飲み込みながら、海は流れ、たゆたい、静まる。地形に応じて流れ込み、こぼれ、破壊する。あるいはさあっと引いていく。
月は地球に近づき、人間たちは寄り添い集まる。自然も人工もひっくるめたある法則のもとに。それは重力や温度や磁力や電波など目に見えないものが従う法則に近い。
その法則の禁忌を突き破って、魚と半魚人と人間の境目は曖昧になっていく。異なる世界の法則(こちらに顕現する時には魔法)がこちらの世界に浸透してくる。時間も空間もごちゃまぜ、あべこべにしながら。結果が過程を変えてしまう。
老女たちを立たせ、歩かせ、走らせるために町は海に沈まなければならなかった。母親たちや子供たちを歩けなくさせ、山の上や崖の上に取り残させるために。

ポニョは自分の意志で人間になろうとし、手足を出して走り回る。
宗介は崖の上と下を行ったり来たりする。老人と幼児の間も行ったり来たり。母親と父親の間も。
リサは車で疾走する。耕一は船で働く。動くこと、人間が生きて動いていくということ。
対照的に人々の心は一途に動かない。心は空気の海の底に生きる人間にとって重りであり、錨であり、その場に留まるための中心である。世界の変容に伴って、少しずつ揺れ動いたりもするが、その空間に落ち着くための切っても切れないものである。
ポニョと宗介の心は、海辺で出会い、大波にさらわれて大きく動き、そして離ればなれになるが、引き合う力を得て再び出会う。心を動かすということはかように世界を変容させ周囲に影響を及ぼす。その渦の中心にあるのは約束と確信だ。

などと、ごたくを述べようと思えばたくさんできる気がする。が、ごたくを述べないでわからないままにしておくのもまた一興である気がしている。豊穣な映像に身を委ねるだけでも目は快楽を享受している。これは絵が動くことへの感嘆と初々しい驚きを呼び起こし、その愉悦をまざまざと見せつける映画だ。

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『トランスフォーマー』 マイケル・ベイ [映画]

 『アルマゲドン』でも思ったが、マイケル・ベイが描く物語は前半部が圧倒的に面白い。
 『アルマゲドン』は後半のしょぼさを補ってあまりある中盤までのテンポの良さ、映像の素晴らしさ、煽るだけ煽ってしまえ的なあっけらかんとした明るさに満ちていたと思う。後半の隕石に到着した後は、はっきりいってもういらない。地球から娘たちが見守っている中、隕石が宇宙空間で爆発した、みたいなシーンだけで終わらせて良かったのではないか。
 で、『トランスフォーマー』だが、近いことを感じた。(以下、未見の人は注意)


トランスフォーマー スペシャル・コレクターズ・エディション

トランスフォーマー スペシャル・コレクターズ・エディション

  • 出版社/メーカー: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
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 米軍が謎の機械生命体に襲撃され、ハッキングされる。生き残った精鋭部隊はその報告を伝える為に砂漠の街への決死行をする。
 ハッキングの対策をしていたところ、大統領専用機からデータをハッキングされるのに気付く。
 ある冴えない青年が自分の車を欲しがり、ありとあらゆる手立てで金を工面し、成績を上げ、父親と中古車専門店へ買いに行く。謎の黄色い車と出会い、美人のクラスメイトを載せるのにとりあえず成功する。
 これらの平行して進む物語はいよいよテンポ良く、無駄がない。練り込まれている。かっこ良い。スタイリッシュである。お、これはいかにも子供っぽい題材をもとにかなり硬派なつくりにしているのかな?とおもいきや、次第に話は少しずつズレてきて、おちゃらけていく。やっぱりマイケル・ベイだった。
 笑えるほど死亡フラグが立ちまくっている軍の男は最後まで生き残るし、ハッキングに気付いた学生の女がハッキング元を確かめるために機密データを盗んで向かったのはゲームばかりしている黒人の男の家(かなり裕福)だし、青年が誘った美人のクラスメイトは車を分解して組み立てられるほどのマニアだし、父親は犯罪者だし、助けを求めた警察はラリっているし、青年の両親はものわかりよく良識ぶっているし、どこかの家の少女はオートボットを見て妖精だと思い込むし、オプティマス・プライムたちはあんなでかいのにせっかちだしと、あちこちでそういうくすぐりがあってそれは子供も大人も笑える種類のユーモアだったのは間違いない。
 後半、やはり物語はなくなり、戦いと破壊へ突き進むわけだが、ロボット達の戦闘と人間たちの卑小さが鮮やかに対比させられて、見物だった。とはいえ戦闘シーンはいくらか退屈してしまうが、トランスフォームの映像がものすごかったので、『アルマゲドン』後半ほどには退屈しなかった(もっと大雑把でも良かった気はするけど)。途中、日本の戦隊ものの巨大ロボットのシーンかと錯覚した。
 おおむね全体としては充分楽しんだが、思い返すとやはり前半部のワクワク感が一番で、そこと後半部の決着した時の感動がいささか食い違っているような気がした。見たことがないものを見せてくれる期待に満ちていたのに、結末はどこかで見たことがあるようなものだったという感じ。そこに齟齬を感じてしまった。
 それを、普段はやる気のない人がやるときはやるぜ、という風に受け取れれば問題ないのだろうが、私はそういうのは面白くないので。トランスフォーマー2では、ぜひそこんとこを引っくり返してほしいと思う。

『ハウルの動く城』 [映画]

ハウルの動く城 特別収録版 1/24second付き

ハウルの動く城 特別収録版 1/24second付き

  • 出版社/メーカー: ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
  • 発売日: 2005/11/16
  • メディア: DVD

フィルムがどうしても欲しくて買ってしまいました。4枚組!!うう、出費が・・・
だって宮崎駿とメビウス対談も観たかったんだもん!(だもん!て。)

フィルムは、カルシファーが目玉焼きを焼いているシーンでした。なんだか嬉しいです。実際に映画館で使用されたフィルムがパッケージされているのですから。わけもなく楽しいと思いませんか、こういうの。(糸井重里はようやった!)

さて、『千と千尋の神隠し』と比べると、映画の外(マスコミの取り上げかたとか)での盛り上がりが少ないのは確かでした。

しかし映画そのものは、私はこっちのほうが百倍好きです。
映像も。話も。『天空の城ラピュタ』を超える名作だと思います。
ラストも最高!
いやー映画ってほんとにいいものですねえ。
それではまた来週。

・・・とやると、私の映画の師匠(某私大教授)に怒られるので、何が良かったのか、もう少し真面目に書きます。箇条書きで。(もちろんネタばれあります)

まず、監督が前作みたいに「子どものために作った」とか「千尋に苦労をさせる」とか発言しなかったのが良い。前作は確かに説教臭さが充満していた。今回は「老人のためのアニメ」という発言はあったが、それだけだった。

それから、前作の良さは、大体がいくつかのシーンにおける情景の美しさに依拠しているところが多かった(なぜ美しいのか、が不明瞭だった)が、今回は情景と物語のバランスがぴったりだった。つまり、情景が美しいことが物語の美しさとからみあっていた。

主人公のソフィーが老婆だというのが良い。それだけで過去の作品への自己批判となっている。
また、マルクルは自分の意志で少年になったり老人になったり出来るが、ソフィーは不可逆性の象徴として、自分の願望(ただたんにそうしたいと思うこと)だけでは行き来できない。しかし逆にいうと、自らの意志(そうなろうと思うこと、もしくはすでにそうなっていること)でしかソフィーは若返らない。

荒れ地の魔女が絶対悪でないこと。また魔女が呪いの源泉ではなく、呪い自体が主体性を持っていこと。
荒れ地の魔女をどうにかすれば呪いが解けてめでたし、めでたし、という方向性を持った物語ではないということ。

ソフィーが城で生活をしようと心を決めた時から、その主題は深く潜伏して、今度はハウルとの関係を構築する(ハウルの謎を解こうとする)主題が浮かび上がってくる。簡単な恋愛劇。そして、物語の途中にも関わらず、「愛しているの」という言葉が出てくる。つまり、愛が最後の主題ではなかったということ。「愛している」の一言でめでたし、めでたし、という方向性を持った物語ではないということ。

慎重に安易な落としどころを回避しつつ、物語は佳境へ。

ハウルの不在と城の崩壊。監督はここで「あえてハウルの内面は描かない」という発言があった。
ハウルが敵と戦うシーンは描きようによっては映画のクライマックスにもなる。普通はそうする。しかし、これは描かれない。この映画には描かれない事が多すぎる。しかし、描かれない事がらが映画をひそかに豊かにしている。

この映画のクライマックスは、ソフィーが城を初めて掃除するシーンと洗濯物を干すシーンと引越しをして模様替えするシーン、ようするに家の中で起きる事が多い。

最後のクライマックスはハウルの遠い記憶の中で起きる。流れ星のシーン。しかし、このシーンは物語の起点となる重要な場面であり、物語の謎解きが明らかになる場面でもある。最初にして最後。
最後のクライマックスなのに、それはもうすでに終わってしまったこととして衝撃的に描かれる。世界に穴があき、ソフィーは吸い込まれる。「世界の約束」を叫びながら。

荒れ地の魔女はあいかわらずしぶといし、わがままだし、ハウルに執着している。
マルクルはもう老人の姿にはならないし、おそらくはもうなれない。ソフィーに「ぼく、ソフィーが好きだよ」「ここにいて」といって以来。(記憶が曖昧なので細かい違いがあります)
カルシファーは最初からなにも変わらないが、ハウルとの重大な契約が終わり、自由になる。
ソフィーは呪いが解けたのか解けていないのかわからないが、それはどちらでも良くなってしまう。
ハウルは少年の自分の心臓を引き受ける。魔法の力は消えたのだろうか?それもはっきりとはわからない。

わからないことが多く残されたまま、映画は終わる。それでもきちんと終わる。見ている私も終わった気になる。もっと見ていたいけれど、ここで終わりなのだと納得しながら。

最後の最後で、カブの魔法も解ける。これは完全にやられた。そうくるかー!!!
いわばこの映画のオチである。カブは完全にトリックスターである。ドタバタ劇を模して、オチる。爽快すぎる。
この物語は重くないですよ、こんなものですよ、世界は、作者も観客も、軽やかなのですよ、といわんばかりに。
そして、もう一度この映画を見ると全部、すっかり語られている事に気づくのである。

いやー映画ってほんとにいいものですねえ。
それではまた来週。


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