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ガンドッグゼロリプレイ『アゲインスト・ジェノサイド』岡和田晃 [本]


ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド (Role&Roll Books) (Role & RollBooks)

ガンドッグゼロ リプレイ アゲインスト・ジェノサイド (Role&Roll Books) (Role & RollBooks)

  • 作者: 岡和田 晃
  • 出版社/メーカー: 新紀元社
  • 発売日: 2009/05/29
  • メディア: 新書


この方のブログをちょくちょく拝見しています。で、気になったので本屋さんで買ってきて読みました。
はーリプレイ読むのなんて何年ぶりだこと。ずず。
一読、うわーっというあまじょっぱい気分に包まれる。いやこの本が、でなくて自分自身が。
これは初めて書くが、実は私もかつて若かりし頃、TRPG者だった。といってもごく薄いはまり方だったのだが。もともと私はGBにはじまり、某W誌で育った人間である(イラスト投稿2回載った)。当然、テーブルトークもやりました。T&T(もうこの時点で薄くて貧乏)でGMやってました。冬の時代に離れてしまった者の一人な訳です。リプレイといえば仲間うちのセッションをラジカセで録音して書き起こしてリプレイもどきをコピー同人誌(しかも鉛筆の手書きイラスト入り。ぐはあっ)にして楽しんでいたり、ライブRPGもどきのようなことを企画して遊んでいたこともある。それはそれは痛く楽しい過去を引きずる人間なのでした。みんなそうだったよね?
閑話休題。
冒頭の「では・・・始めよう」からもう自分の中で懐古モードに入ってしまう。始まる前のくっちゃべり状態からGMのこういう一言で皆で世界に入っていく緊張感と醍醐味を思い出す。
この本の世界は現実世界をもとにした架空の近未来を舞台にしている。ガンアクションを主眼に置いたプレイを行うためにデザインされたゲームなのだそうだ。
そういう背景の中、シビアなミッションをこなすPCたち。演じ分けの大変そうなNPCもたっくさん出てくる(そうそうNPCはたまにどれがどれだかキャラクターが混乱することがままあったことも思い出した。ひとえにマスタリングの力量不足なんだが、この本ではキャラ立ちまくっており素晴らしい)。なによりもPCに自由に人物像(出自、背景)を創造させて、それらも絡めつつPCがわりと自由に行動の選択をしても受け止めることができる懐の深さと広さに驚いた。これにはかなりの行動予測、ストーリーや世界観の設定、なにより参加者とのあうんの呼吸が必要なのだけれども、最後まで破綻せずにまとめあげたのは素直に賞賛。(それはもちろんPCの積極的なコミットに依るところも大きいのだけど。プレイヤーの方々の力量というのも賞賛したい。)
途中での新PC入場とかいろんな仕掛けもある。どれだけプレイヤーを驚かせたり喜ばせたり怒らせたりするかを考えるのってGMならではの愉しみなんだよねー。一発ネタに命がけ。ギミックきかせてなんぼ。プレーヤーもひそかに楽しみにしてたりね。予想の裏切りあい。最初から攻防が始まっているという。実はこの本で一番面白さを感じたのがこういう部分だった。物語を優先させるとこういう部分は省かれてしまいがちなのだが、きちんと書かれていて好印象だった。リワードポイントの自己申告などのやりとりも臨場感があった。能動的にプレイに参加している気配を感じるとGMは無条件に嬉しくなるもの。そのあたりの機微にもできるだけ心を砕いて公平に書かれていたと感じる。
これはガンドッグゼロに限らぬTRPGの面白さが那辺にあるのかを考え抜いて端々に滲ませつつも、物語の体をある強度まで鍛えることに力を注いだリプレイだと思う。
とはいえ私なぞが偉そうにこんな風に云ってしまうことに多少の後ろめたさがある。TRPGから離れてはや二十年近いのだから。でも、あれは確かに楽しかったよな、と思い出させてもらえたことに感謝。またやってみようかなって一瞬。
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多木浩二再読月間 [本]

先月、大蟻食様の明大の講義を聴きに行こうと思って予習のためにちょうど良いかな、と思って本棚から引っ張り出した多木浩二先生の『肖像写真』。ザンダーについても1章書いていたものだから、興味深く読めました。それで思ったのはやっぱり多木先生の文章ってスリムでシンプルでかつ含蓄があるなあ、ということでした。深い思慮をへた明解な論理展開が心地よいのです。そこまで断言するか、と思うときもありますが、説得力があるのです。

肖像写真―時代のまなざし (岩波新書)

肖像写真―時代のまなざし (岩波新書)

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 新書


この『肖像写真』ではナダール、ザンダー、アヴェドンという時代が異なる3人の写真家が撮った肖像写真をもとに、その時代にしかないまなざしを探っていこうとする試みています。つまり「顔の意味の歴史」について言及しようということです。
ちなみにナダールは19世紀後半、ザンダーは20世紀初頭、アヴェドンは20世紀後半に活躍した写真家です。
簡単にまとめてみましょう。
ナダールは同時代の人々を無数に撮っていく中で、ブルジョワジー社会というものの特質を無意識に浮かび上がらせたということです。言語化しづらいのですが、作家、画家、作曲家、政治家、俳優、といった当時の有名人(ちなみに写真集に載っているのは、ほとんど現代の我々も知っている有名人ばかり)の肖像写真を撮る作業の中でその個人を個人たらしめるある特質を備えたような人物像として写真に残しているのです。わかりづらいですね。つまり・・・例えばナダールの写真集の中でも女性ばかりを集めた写真集を眺めてみたのですが、ここにある人々は固有名は記録されているものの、現代の私がそれを見た時にまるで何も呼び起こされるものがない、ひっかかりがない、たんなる美しく着飾った19世紀後半の女性たち、という範疇でしかとらえられないものだったのです。古い外国の絵葉書によくあるようなイメージの写真。(これはこれで当時の女性がどのように演出して撮らせているのか、などなど考えさせるところが多くあり面白いのですが。)
ところが、ボードレールやらアレクサンドル・デュマやらドラクロワ、マネ、コロー、ドーミエ、ドレ(遺影も)、ベルリオーズ、ロッシーニ、コクトー、プルースト、ギゾー、などそうそうたる面子がめくってもめくっても出てくる写真集を眺めていると、とにかくその人物に対する色々な引っかかりや興味、すなわち個別性が、見る者に突き付けられている気がしてくるのです。必ずどこかで見たような写真があるのです。みんなナダールが撮ったんですね。
それまではカリカチュアという手段で有名人の個性を誇張して表現していたものが、写真という技術が生まれたことで誇張をする必要もなくその人物の個別性があらわにしてしまうことが可能になったのでしょう。それはいわば顔の圧倒的な存在を焼きつけることでした。その顔は社会的に侵食し、我々の記憶まで入り込んで様々に書き換えをしていきます。そう考えると我々は写真という実在する物体を通じても結局は己の思い込みや印象を微調整するほかない、あやふやな存在なのだなあと思わざるを得ません。
続いてはアウグスト・ザンダーです。以前の明大講義にも出てきました。この本では20世紀初頭のドイツの一地方ではありますが、あらゆる階層の人物、さまざまな職業の人々、家族、夫婦、若者たちといった老若男女を問わず全ての人たちを写真に納めようと試みた写真家として取り上げられています。そこにおぼろげながらも立ち現れてくるのは貧富の差、都市部と農村部の差、有名無名の差を超越したある民族の「貌」といいますか、ひとつの風景といいますか、無数の写真を集めることでそこに醸し出された空気を、風を感じられる気がします。ナダールが撮った同時代の人々の写真とは全然異なります。どこが、といわれるとこれも言語化しづらいのですが、現代の私がそれらの写真を見てもナダールのような記憶を引っ掻き回すようなことは全く起こらず、むしろ数を通してその固有の時代をその固有の場所を新しく知ることが可能であるような(錯覚をするような)気がしてくる写真なのです。といっても単なる記録写真に留まりません。字義どおりの意味での「民族の記憶」を再現させられているような気がするのです。
しかし、ザンダーの写真集が近場の図書館には無かったのでこの本に収録された小さなものしか見ていません。ちゃんと見てからもう一回考えてみたいところです。(ちなみにDVDが出てるみたいなのですが、これって写真集なんでしょうか?それともザンダーの生涯を辿ったドキュメントか何かなのでしょうか?それによって購入しようか悩んでいる最中なのですが。誰か情報求む。)
最後はアヴェドン。まったく知りませんでした、この写真家。ショッキングな肖像写真というのでしょうか。例えば最後の奴隷といわれるウィリアム・キャスビー。あるいはカポーティの『冷血』のモデルとなった殺人犯のディック・ヒコック。そしてその父親。ナパーム弾の犠牲者。死期が近づいた自分の父親。生々しいというか現実の生活の中からは目を背けたくなるような被写体を撮っている写真家です。ここではパフォーマンスという言葉を使っていますが、彼の撮る肖像写真から圧倒的に語りかけてくるものをそこに封じこめ、不穏な気配を刻み付けて、見る者と対峙しています。それは有名人の肖像写真も無垢な少年の写真も同様です。
アヴェドンの写真はそのパフォーマンスをもって何かを訴えたいとか、写真家はこれを意図しているのだとかいう言説にはまるで相反しているような種類のものだと思います。撮る側の人間の気配は極力排している気がします。にもかかわらず見る側の人間に引き起こすいいようのない感情は一体なんなのでしょうか。これが現代の写真家が写す肖像写真だとしたら、これは一体現代という時代のどういう側面を切り取っているのでしょうか。多木先生は悲観的な結論を記していましたが、もう少し時間が経たないと見えてこない問題なのかも知れません。ひとつ言えそうなのは、これらの写真が「撮る者」と「撮られる者」とそしてそれを「見る者」との間に生じるある種のコミュニケーションであり、それがどこか機能不全に陥っているようにも感じられるし、過渡期にも思えるということくらいでしょうか。
いやはやしかしこの新書の分量でこの内容の濃さ。さすがです。

思いのほか発奮させられたので、続けて我が家にあった多木浩二氏の新書をあらためて読み返してみようじゃないかと、続いて手に取ったのが『戦争論』。

戦争論 (岩波新書)

戦争論 (岩波新書)

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1999/09
  • メディア: 新書


これも20世紀末にでた本ですが、9.11以降に読んでもまったく問題ありません。恥ずかしながらこの本を読んでルワンダの虐殺を初めて知りました。(この前、テレビでルワンダでの加害者が被害者の家を建てることで罪を償うというプログラムを試みているのを見ました。それにしても殺されて埋められた人々を掘り起こしてそのまま記憶を風化させないために展示している風景は結構衝撃的でした。埋葬し直さないのでしょうか。死生観の違いなのでしょうか。それともそこで起きたことに正面から向き合うとあまりに異常な記憶だったせいでそうなっているのでしょうか。)
近代以降の戦争について考察し20世紀を総括する内容となっています。

それから『ヌード写真』。

ヌード写真 (岩波新書)

ヌード写真 (岩波新書)

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1992/01
  • メディア: 新書


この本も多岐にわたる話題と深い洞察が読みどころですが、私がうけたのはドイツに起きたヌーディズムに対し、ナチズムとの影響関係をふまえたうえで書かれた次の一文です。
「ヌーディズムという形をとった宗教的実践は、自らの文化あるいは宗教が性についてつくりだしてしまった罪の意識とのシャドウ・ボクシングのようなものだった。」
つまり禁欲が極限まで進むと宗教的ヌーディズムまで行き着いてしまうということ。なぜなら宗教的ヌーディズムの根本に、われらは性を克服した、だから裸でいられる、公開性交もできるのだ、という主張があるから、ということになるらしい。それを上のようにあっさり書いていたので思わず吹きそうになりました。

さらに『絵で見るフランス革命』。

絵で見るフランス革命―イメージの政治学 (岩波新書)

絵で見るフランス革命―イメージの政治学 (岩波新書)

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1989/06
  • メディア: 新書


これも良い本ですよね。絵解きフランス革命ではありません。当時、描かれたものから総体として浮かび上がってくるフランス革命。描かれたものは、すなわち多くの民衆の目に触れたものであり、それらが流通することで再生産される「革命中の現実」という空間があったのかもしれません。

最後に『20世紀の精神』の最終章、プリモ・レーヴィの『溺れるものと救われるもの』。アウシュヴィッツで生き残り、文筆活動をしてきた化学者は結局、自ら命を絶ってしまう(事故説もあり)。人間は悲劇から学び二度と繰り返さないという選択をすることができるのでしょうか。それとも人間は悪を繰り返す生き物なのでしょうか。そもそも悲劇を学ぶところからして怪しいものだと思ってしまう私ですが、たとえ学んだとしても状況に対する人間の無力さ、流されやすさというのもまた過去が教えてくれる事実であります。有名な監獄での心理実験もありましたしね。実験の中ですら人間は悪になりうるのですから。

20世紀の精神―書物の伝えるもの (平凡社新書)

20世紀の精神―書物の伝えるもの (平凡社新書)

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2001/02
  • メディア: 新書



というふうに予習だか復習だかわからなくなってきたあたりで、私がいつも楽しみにしている講義録がアップされた(「大蟻食様ストーキングメモ」を参照。以前、管理人の方にコメントをいただいたことがありました。以来よく見ています。講義録の公開は本当に大変な労力だと思います。大蟻食様の一ファンとして感謝しています。)ので読んでみましたら、ああ、行けば良かったと大後悔する内容でした。特に文化にも毒が含まれていて、他者を排除することに対して親和的、というくだりには私の中のもやもやが氷解しました。こういうことはテレビとかで見るいわゆる文化人はいいませんからね。すっとしました。

ところで多木浩二氏の生講義を何回か聴いたことがあります。私も若かったのであの独特の語り口に、最初はちんぷんかんぷんでした。(と、書くのも非常に恥ずかしいのです。)
もう一度、講義を聴いてみたいなあ。でもやっぱりわからなかったらどうしよう。

最後にブラッサイの写真集を借りたらとても良かったので紹介します。

ブラッサイ写真集成

ブラッサイ写真集成

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2005/08/24
  • メディア: 大型本


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よしながふみ あのひととここだけのおしゃべり [本]


よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

  • 作者: よしなが ふみ
  • 出版社/メーカー: 太田出版
  • 発売日: 2007/10/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



つねづね感じているのですが、対談というのは対面する二人が手探りで話を転がしていって、面白くなってきた頃に終わってしまうものが多いのです。私はその終わった後の話がもっと聞きたいのです。ひどいものになると、ようやく問題が浮き彫りになった瞬間に終了するものもあります。お前らお互いに挨拶を交わして終わりかーっ!

さて、漫画家のよしながふみさんが同業者をメインに対談したのをまとめたものがこの「あのひととここだけのおしゃべり」です。この対談は濃い。読みごたえがありました。いやあ、こういう対談が読みたかったのです。あうんの呼吸で、丁々発止のやりとり。膨大な注がついていますが、ほとんどが会話に出てくる漫画家の説明なので、漫画好きならスラスラ読めるはず。

私は、よしながふみさんの漫画をくまなく読んでいるというわけではありませんが、大好きな漫画家さんです。乗りに乗っているという意味では今一番の作家さんではないでしょうか(いやまだまだ今以上に期待し続けますよ!)。
完結した『フラワー・オブ・ライフ』は素晴らしかったです。連載中の『きのう何食べた?』も『大奥』からも目が離せません。『愛がなくても喰ってゆけます。』も好き。もちろん名作『西洋骨董洋菓子店』もはずせません。(アニメ化にも期待)

冒頭のやまだないと氏、福田里香氏との鼎談では近年まれに見るくらいの少女漫画への熱い想いが語られています。私は居酒屋で隣の席でこんな話が繰り広げられていて、それを盗み聞きしているような気分になりました。そうそう、そうなんだよね!と心の中でうなずいてるの。あまりにも私が辿っていった少女漫画の遍歴そのままだったので、感動すら覚えました。最終的には24年組に行き着くんだよね!やっぱり。
三原順の話題だけは私も声を揃えて会話に加わりたくなりました。みんな同じことを思うんだね!『はみだしっ子』もいいけど『ロングアゴー』と『ムーンライティング』と『SONS』を描いてくれてありがとう!三原先生。という。
『はみだしっ子』子供の視点で描かれた最初の数話はやっぱり少ししんどかった部分もありました。中盤から後半にかけては「どうしてボクを見てくれないの?愛してくれないの?」という思いから解き放たれたと思います。
そして、さらなる高みに到達し円熟さをもって描かれた『SONS』を私はこよなく愛するものです。

くらもちふさこが職人だという話も同感。芸術家肌に行かない、というのはまったくその通りだと思います。なんでそんなことがわかるんだろう、この人たちは。くらもちふさこがすごいのは、(語弊を恐れずいえば)突出したすごい漫画を描くからではなく、にもかかわらず現役先頭を平然と走る普通さの為だからなのですよね!

大島弓子を男が誤って読み解いているのでは、という話も目からウロコでした。私は大島弓子もこよなく愛する人間ですが、面白いと思う気持ちは間違った所から来ているのでしょうか。少しひっかかったのは、ここで避難されている男性像がけっこうステレオタイプな気がしたのです。他の対談で出てくる男性は離婚漫画を描けない話とか。それは事実だったのでしょうけど、描ける男もいると思うんですよね。特に若手で。今度は男性漫画家とも対談して下さい(希望)。

私はBLには詳しくない人間ですが、BLをとりまく状況やBLの自由さの話には興味を持ちました。何作か読んでみようかな、という気持ちになりました。装丁や本棚の敷居は高いんですけどね、実際。でも乗り越えてみましょうか。

漫画に対する創作姿勢には打たれるものがあります。そして実際に漫画が面白いのです。さらっと描いてある風なのに、よく読むとそのバックボーンには一筋縄ではいかないものに貫かれているのです。
最近とみに思うことですが、あらゆる創作は過去と未来に繋がっているものであり、その時々で達成されるものもあれば、長いスパンで実現されるものもあります。伝統を乗り越えることで現れる現実もあれば、伝統を踏まえることで現実をのりこえることだってあるのです。
よしなが氏のいう、贅沢なものを読ませていただいた恩返しの代わりに、これから先の人たちに伝えていきたいという気持ちは、心の底から出たものだと思います。創作を志す者は肝に命じるべきではないでしょうか。
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植村直己『極北に駆ける』『北極圏一万二千キロ』『北極点グリーンランド単独行』 [本]

植村直己の北極圏3部作とでもいった趣の3冊。

極北に駆ける

極北に駆ける

  • 作者: 植村 直己
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1977/01
  • メディア: 文庫

『極北に駆ける』では、単身グリーンランドのエスキモー(イヌイトまたはカラーリット)達の生活に飛び込み、犬橇の技術を修得するまでを描く。人々に溶け込むために、荷物運びを手伝ったり、子供たちの注目を集めようとしたりと奮闘するのが(本人は必死だが)微笑ましい。
日本とはまるで違う人々の食生活や、きりなく家に出入りする隣人たちに多少辟易としながらも、植村はグリーンランドに生きる。
老夫婦の養子となり心も身体も郷に入ったころ、本格的に犬橇の訓練を開始する。
鞭の使用法に苦戦させられつつ短距離の走行を繰り返し、ついには仕上げの三千キロ走破を達成する。
その頃にはすでに(はじめは呑み込めなかった)アザラシの生肉の味にも舌鼓をうち、猟にも慣れ、言葉も堪能になっている。
都市生活をしている人間は彼らエスキモーを原始的な人々だと思いがちだが、彼らは彼らで犬橇も乗りこなせず、アザラシ猟も出来ない仲間を都市生活者のようだと馬鹿にする。金に執着せず、毛皮の売買で手にした大金もあっという間に浪費してしまう。陽気で逞しくて誇りを持つ人々。
そんな彼らに愛情を感じ、彼らのようになりたいと思い、数カ月の努力で一人前と認められた植村直己はその精神と技術を持って、エスキモーからも「やめたほうがいい」と止められるほどの冒険に旅立つことになる。

北極圏一万二千キロ (1979年)

北極圏一万二千キロ (1979年)

  • 作者: 植村 直己
  • 出版社/メーカー: 文芸春秋
  • 発売日: 1979/07
  • メディア: -


『北極圏一万二千キロ』は、グリーンランド沿岸から凍てつく北極圏をひた走りカナダからアラスカまでをたった一人で犬橇に乗った冒険行の記録である。エスキモーでさえもクレージーだという行程。
地形や気候もさることながら、犬たちとのコミュニケーションに悩まされる植村。
メス犬をとりあって争い、血まみれの死闘をくりひろげる犬たちと、それどころではない未知の冒険に不安を感じる彼の内面の葛藤が真っ白い氷原を疾走する。
いや、疾走と表現するのは正しくない。氷山あり、渓谷あり、薄氷あり、補給物資なし、という最悪の局面がつぎつぎと襲ってくる。植村の苦悩と奮闘をよそに犬は橇牽きをさぼるし、喧嘩するし、怪我をする。
大事な道具や毛皮を彼はよく無くす。これは、たんに不注意ということではないだろう。零下何十度という世界で冷静な判断力をくだし、鞭をふるう体力を維持し、自分の命を守るのに精一杯な状況では、やむを得ないものだろう。立っているだけでも体力を消耗する世界。生きようと努力をしなければどんどん死んでいく世界。
カナダで越夏(氷が溶けるから)し、アラスカまで勢いで到達する。犬たちは次々と倒れていく。植村の愛惜の情が心を打つ。エスキモーと彼の一番の違いは犬に対する同志愛の深さかもしれない。エスキモー達は弱った犬をいとも簡単に食糧にする。これを残酷で野蛮というのは間違っている。極寒の土地で生きるための智慧なのだ。しかし、植村はそれが出来ない。冒険をともにした犬を呑み込むことが出来ない。とはいえ、それをセンチメンタルと誰がいえようか。善意で出された椀を目の前にした植村の気持ちは本当のものだと思う。この気持ちを持つからこそ、植村は冒険に出るのだ。

北極点グリーンランド単独行 (1978年)

北極点グリーンランド単独行 (1978年)

  • 作者: 植村 直己
  • 出版社/メーカー: 文芸春秋
  • 発売日: 1978/10
  • メディア: -


『北極点グリーンランド単独行』は、前回の冒険から2年後。再び北極圏に舞い戻った植村が、今度は地球の頂点ともいえる北極点への犬橇単独行に挑戦する。
またもや犬たちの行動に悩まされる。メス犬は妊娠・出産するわ、喧嘩で走れなくなった犬が続出するわ、白熊に襲われるわ、もう大変なことになっている。
しかも凍結している氷原も生々しくブキミに動く。ルートを見極めないと命に関わる。
それでも、北極点を目指す冒険に胸が高鳴る。単独行という矜持を胸に、彼はマイナス50度の世界をゆく。これまでも、そしてこれからも選ばれた人間しか体験不可能な旅をする。
ついに極点に達した彼は、休む間もなくグリーンランドにとって返し、いよいよ前人未到のグリーンランド縦断の冒険を開始する。南極大陸単独犬橇横断という夢をもって、植村直己は果敢に挑戦する。
ヒドン・クレバスに消えた犬。
やせ細った白熊。
何千キロも羽ばたいて氷河に落ちた小鳥。
植村は「私にもいつか、このような不測の死が訪れるのだろうか」と述懐する。

犬達はあいかわらずだが、次第に植村を主人と感じ、目でコミュニケートができるほどに親密になる。
これは余談だが、このグリーンランド行は糞の旅でもあった。
犬達は走行中に糞をする。走りながら出来る犬と出来ない犬がいるという。止まっている時にすればいいのに、と彼も嘆くが、犬達は平然と糞まみれなのであった。
また空腹で食糧がつきた時は、犬は自分の糞を食べる。強い犬は弱い犬の糞を横取りして食べる。植村も自分の糞を弱った犬やお気に入りのリーダー犬にこっそりあげたりする。

グリーンランド縦断の冒険は補給なしには出来ないものだった。これを真の単独行ではないという人は冒険の意味を無謀とはき違えている。本人も書いているが、技術の進歩で単独行の意義が薄れるかといえば、まったくそうではないのだ。疑問を持つ人は本書を読めばわかる。読んでもわからなければ、あとは自分でやってみることだ。


追記
以前、私のヒーロー像とはずれていたという話を書いたが、この三冊のほかに、

植村直己記念館

植村直己記念館

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1991/02
  • メディア: 大型本

や、

植村直己 (KAWADE夢ムック)

植村直己 (KAWADE夢ムック)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2004/09/25
  • メディア: 単行本

などを読んで、今度こそあの「植村直己」が私のヒーローに重なりました。


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「サバイバル登山家」服部文祥   [本]

サバイバル登山家

サバイバル登山家

  • 作者: 服部 文祥
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 単行本

こんな本を読みました。
山と真摯に向き合うためには最新技術の装備を背負わずに、最低限の所持品と身ひとつでサバイバルするほかない・・・そんな考えのもと、服部氏は長期間の山行を行うのです。
それは山もしくは自然とフェアに対峙するための方法であるといいます。

正直云って、こういうことは考えついても実行しないのが関の山なのですが、彼は実行してしまう。
それは確固たる信念のもと、といいたいが、実は本人は結構小心者であり(と自分で云っている)、いつも迷っています。他人の声に影響を受けやすい己を良く知っているのです。

山に入るために1ヶ月の休暇を取る時に会社から契約を切られそうになって「家族と相談させて欲しい」などと云ってしまう。
山中でようやくつながった携帯電話で、妻と長く話すと心が揺れ動くから、といってすぐに切ってしまう。
山の中では貴重な食糧を、出会った登山家たちから分けてもらえないだろうか、と逡巡する。話を切り出して冷笑されたりする。

あえてみっともない姿をさらけだしているようにも見えます。一種のポーズにも。
しかし、これは私自身の姿でもあるのです。
登山家が皆、超人や聖人であるわけではないのです。契約を切られたら職を失って家族もろとも路頭に迷うのは目に見えるのですから、相談させてくれ、というのは何ら恥ずかしいことではないはずです。それに対して「そこまでの覚悟の登山ではないのか」なんていう会社の上司の感覚のほうが、本当はおかしなことなのではないでしょうか。(登山にまつわる理想主義的な臭いはこういうところから匂ってくるように思います)
心の迷いは誰もがもっており、それを隠したり、何かでごまかしたりはできるけれども、消し去る事はできないのではないでしょうか。

都市に生きている人間を筆者は「お客さん」であると断じます。確かに自分の力で生きる部分がほとんどありません。仕事を持って、その仕事を全うするのに力を注ぐことはあるにせよ、衣食住の部分ではゼロ、といってもいいほど他人に生かされているからです。そういう意味では私自身も「お客さん」です。
強くなりたい、と筆者は書きます。お客さんではなく、自分の力で生きる能力を高めたいと。そのためのサバイバルなのだと。

会社の上司に説明しようとして、説明できないシーンに私は心を打たれます。
とてつもなく深いズレを感じてしまい、いくら説明しようとも、彼は彼の価値観でしかその説明を受け入れる事ができない。そのことを説明する前にわかってしまったという悲劇。

胸の内を開けば開くほど、伝えたい事からはどんどん遠ざかってしまうこと。
だから黙って自分のうちだけで計画を立て、実行してしまう。

己の中に抱いてしまった疑念や欲望は、自分自身の行為の結果でしか解消したり昇華させたりできないものなのでしょうか。
いや、他人に影響を受け過ぎてしまうということの反対には、自分自身への疑いがあるはずです。むしろ、他者とは関係ない山(自然)で自己と向き合う事、理不尽でも絶対的な自然という存在に翻弄されることを望んでいるように思いました。

とりとめもなくこんなことを考えた本でした。


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