SSブログ

東京都美術館『フェルメール展』 [美術]

さて、上野公園を横切って東京都美術館『フェルメール展』。この前の新国立美術館で手酷い仕打ちを受けた後遺症も残ったままでしたが・・・。そんな中、あえてこれに向かった理由はただ一つ。
どうしても「小路」が見たかったから。
フェルメールの風景画は世界に2点しか現存していませんが、この2点とも傑作だと思います。それがこの「小路」と「デルフト眺望」。いっとき私の職場のパソコンのデスクトップは「デルフト眺望」になっていました(サイズがぴったりだったし)。なにか目立つ建物があるわけでもありません。また空は曇天に近く、明るい風景でもありません。にもかかわらず目が釘付けになってしまうのはミニチュアのような人物が点々と描かれているためかもしれません。
この「小路」が展示されているという一点だけで、私は人ごみで息苦しい会場に飛び込む決意をしました。なぐさめ程度に混雑状況を携帯電話で確認しながら(一日中20分待ちでした。あれって何を基準にみてるんでしょうね?)。
「小路」にも小さく省略された筆致で描かれた人々が4人配置されています。その誰にも焦点は合っていませんし、その風俗を描こうという野心も感じられません。非常にニュートラルな眼で景色をすっぱりと切り取っています。空間的にも、時間的にも。その一瞬を画面に空気ごと封じ込めているのです。この世界の構築はまた前述のミレイのそれとは異なるものでした。時代も国もまったく異なるものを比べても仕方ないですが、現実を絵に定着させる方法とその結果もまた千差万別であるということでしょう。
他のフェルメール作品は「小路」ほど熱心には見ませんでしたが(なんせ人の頭ばっかりで)、見どころとしては従来の青空を洗浄したあとの「ディアナとニンフたち」と、急きょアイルランドナショナルギャラリーから借りてきた「手紙を書く夫人と召し使い」でしょうか。個人的には「絵画芸術」よりも嬉しかったです。
「ディアナとニンフたち」は個人的には青空を描き足した画家の気持ちが分かるような気がしました。あれはあれでありだったのではないでしょうか。もったいない。ま、学術的にはいかんということなのでしょう。
「手紙を書く夫人と召し使い」は、たぶん私はアイルランドで見たんだろうなー、覚えてないけど。貸し出し中だったのかなー。召し使いを中心に据えた構図とカーテン越しの自然光のたおやかさ、窓のデザインの複雑さ、背景の絵の暗さ、前景にかかる幕、床の(毎度おなじみ)市松模様、落ちている物体、青と赤の対比などなど絶妙な配置が見る者の欲求をかきたてたりなごませたりします。これは名品だと思います。
ところで、フェルメールの絵をじーっと眺めているとだんだんモンドリアンの絵を思い出すことってありませんか。私だけではないと思いたい。それはないにしても、だんだん絵が色と形だけに見えてきませんか。それはおそらく直線の使われ方からきているのだと思います。画面の中の直線が、実際には同一平面上にあるはずのない人物に必要以上に干渉しているせいです。
例えば「リュートを弾く女」の地図の下端の部品がもう少しで女の頭に突き刺さるところです。なぜ画面のほぼ中心にこの部品を置いたのでしょうか。わかりませんが、この配置がこの絵を引き締めていることは確かです。普通ならばこれだけ隣接していたら画面の均衡が崩れてもおかしくないのに(奥行きの効果によるのだと思いますが)かえって引き締まっています。座布団一枚。
あるいは「ワイングラスを持つ女」の斜めに開いている窓枠と背景の絵。絵の額縁の右下部分が男の頭に接続されています(だから何といわれると困るけど)。例えばこの絵の右上に他の絵のように前景に幕がたれていない理由は何でしょうか。おそらくそれは同じく画面の右下に女のドレスの柔らかい襞がたっぷりと占めているからでしょう。また窓枠の入り組んだ意匠と色彩が凝集しているのは柔らかい女と男と単色の強烈さがそこにあるからだと思われます。硬くて複雑でカラフルである必然性がそこに見いだせます(勿論どっちが先かという話ではないですが)。
以上のように大雑把にみていってもフェルメールの画面配置がまったく無駄のない絶妙なバランスの上にあることがわかります。
最初に戻って「小路」ですが、この絵がこれほど魅力的なのはなぜでしょうか。先ほどいったミニチュアの人物が粒粒のように景色に置かれているという点に大きな魅力を感じていることは確かです。この人物がまったく存在しない画面だったとしたらこれほど魅力的だとは思えません。
もしかしたら、このうちの一人をクローズアップしていくとフェルメールの室内画になるのかもしれません。右下のなにか繕い物(?)をしている女性にむかってどんどんカメラを近付けていきます。と、ある一点にさしかかるとフェルメールの構図と真っ暗な室内になにか物体が見えてくるかもしれません。それで一枚の絵になるのかもしれません。あるいは小路の奥にいる女性の姿へクローズアップしてみると、これまた一枚の絵になりそうです。ひとつ云えることは、画面の各所でこういった色々な構図をとることが可能であるように景色が描かれているということです。それは風景画であれば当たり前のようですが、他の画家の絵ではそこまで簡単ではありません。これは(素人考えですが)フェルメールの風景画の特徴の一つといえるかもしれません。この風景画の下3分の1は人物ごとにそれぞれ3枚の絵に四角く切り取って分けることができるように思えます。
しかしそれがこの絵の美しさの秘密の核心部分ではないと思います。部分の構図がとれるくらい隅々まで計算して人物を配置したからこの絵が素晴らしいという話ではないのです。それは秘密のうちのほんのわずかな分でしかないと思います。それにたぶん、フェルメールはこれら想像上の3枚の絵を描こうという気は起こさなかったでしょう(理由は、この絵には影がないから、だと思います。ということはすなわち光もないから、ということでもあります。フェルメールの室内画はほとんど左に光源があって物体や人物の右側に陰影がつきます。しかし、この風景画の光源はどこかといわれればおそらくこの絵を描いている人物の背後だといえます。もしくは曇天のために陰影が生じないということかもしれません)。
場所は未だに特定されていませんが、彼はこの小路のある風景の「原型」に出会ったのだと考えられます。書割りのような建物の脇に奥行きを感じさせる小路のあるこの場所を見つけました。いや、むしろ彼の眼がこの風景のこの構図を切り取ったというべきかもしれません。建物の色は実際とは異なっていたという可能性だってあります。雨戸の色もしかり。フェルメールの場合は、現実ありきではなく、構図と配置が優先されるからです。
この絵でひときわ目立つのは1階部分の壁にさっと鮮やかにひかれている白です。これがいわば光の反射であり(すなわち他の室内画における背後の壁の明るさに等しい意味を持つ)、残りはすべて陰影だといっても過言ではないかもしれません。例外は曇天の雲です。これもまた光の反射そのものであり、壁の白と対になります。ここでも前景と背景という対にバランスが見いだせます。わずかな青空と左側の緑に対するのが建物の赤銅色でしょうか。
窓の黒と、その同質の黒い背景にくっきりと浮かび上がる座った女の姿。さらに壁の白のまぶしさで私の目は焼きつけられてしまいます。しかしなんといってもこの部分のハイライトは女性の右上の開かれた雨戸の鮮烈な赤!です。これがなかったらこの絵が完成しない程の赤です。となると外せなくなるのが反対側の閉まった雨戸のくすんだカーキ色・・・というふうに連鎖していくのでこの絵は飽きません。
建物をはさんで人物たちを結ぶ三角形。遠景の屋根が空を切り取った三角形。雲の柔らかさと人物の柔らかさと建物の直線の硬質さ。ぬかるんでから乾いた跡の地面。色が剥がれ落ちた上階の雨戸とビビッドに塗り替えた下階の雨戸。子供と壮年と老年の異なった時間の流れ。・・・戯れ言になってきたのでもうやめます。

他の展示ではヘラルト・ハウクヘーストの「ウィレム沈黙公の廟墓があるデルフト新教会」なんか良かったです。ピーテル・デ・ホーホも数点見られて満足。例の新国立よりは数倍まともでした。
それにしてもあの音声解説だけはどうにかならないものかな、と思います。ただでさえ渋滞している絵の前でイヤホンをつけた人々が陣取って動かない姿にはちょっと我慢なりません。聞かずに絵を見ろと言いたくもなります。そもそもあれは邪魔じゃないか?どうしても聞くなら離れたところでお願いできないものでしょうか?純粋に見ていて時間をとるのは(自分だってそれをするから)仕方がないとあきらめがつきますが、あの混雑と行列待ちの中で解説が終わるまで動かないというのは少し文句も言いたくなります。美術館側もそのへん考えてほしいところです。
だからフェルメールを独り占めできた体験というのは、もうこの上なくかけがえのない時間なのだと思います。私は2回、「小路」の前の行列に並んでゆっくりと動くのを待って真正面から絵を貪りました。それでも足りないし、本当なら独り占めしたかった。絵はがきなんぞでは再現できない本物の色を目に焼付けたかったのです。画集の色も全然ちがうし、本物を見た後でそれらのレプリカを見たら目が汚れるとまで思ってしまいました。
もしも独り占めできた記憶があるとしたら、私は嫌な思いをしてまで何度も見に行こうとは思わないですね。その大切な貴重な記憶で満足します。再び独り占めできる時まで。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

『薔薇のイコノロジー』 若桑みどり [美術]


『マニエリスム芸術論』を読んだ数カ月後に若桑みどりさんの訃報に接し驚きました。
あわてて『薔薇のイコノロジー』を読み、あらためて氏の聡明さと洞察の深さに感動したのでした。
私が初めて若桑みどりさんの講義を聴講したのは今からもう12、3年くらい前のことです。だいぶ忘れてしまいましたが、20世紀の芸術を考える、というようなもので、例えば北野武の『ソナチネ』を評して「彼がこのような素晴らしい映画を撮ったのは本当に驚きです」というような話をしたのがとても印象に残っています。たしか三宅一生がプリーツをつくる現場の映像などもそこで見たと思います。
私が初めて尊敬した大学の教授でもあります。舌鋒がとにかく鋭く、90分もあの調子で語られると講義終了後にわけもなく何かやらねば、という高揚感を感じてしまうのです。研究者としてはもちろんのこと、教育者としての使命感は並々ならぬものがそこにはありました。まず自分がとことん知ること、考えること、議論すること。その姿勢を見せること。そして、その成果と課題を学生に教え、伝えること。口調は常に熱かったのです。
絵画の見方なぞまるで会得していない田舎の小坊主だった私が、それを氏によって初めて啓蒙されたのは幸運なことでした。思えば、氏から教わったことはつまるところ人間のこと、人間のなしてきた事や今なされている事を我々は考えなければならないということだったように思います。人間のすることには全て意味があるし、無意味だと思ってやり過ごしているととんでもない目にあう。それは過去の歴史が証明している、と。そんなことを無知で無気力な若者に全力で伝えていたように今になって感じるのです。

薔薇のイコノロジー

薔薇のイコノロジー

  • 作者: 若桑 みどり
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2003/04
  • メディア: 単行本


さて、氏の代表作に必ずあげられるこの『薔薇のイコノロジー』ですが、基本的には西洋絵画における花の意匠について多面的に考察している論集です。パルミジャニーノ、ボッティチェルリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラッファエルロ、ブロンズィーノ、ヤン・ブリューゲル、スルバラン、カラヴァッジォ、ウィリアム・モリスらが主に取り上げられています。
絵に描かれた薔薇の花はただの飾りではなく、古くから連綿と続いている象徴や歴史的な意味があり、描き手はそれをはっきり意識しながら絵を描いたことが浮き彫りにされます。ここでは氏の博識が遺憾なく発揮されています。しかし話はそれだけに留まりません。その絵の中の花の色や位置や表現のされ方から、先行作品への参照や描かれた当時の時代背景や描き手の思想を次々と読み解いていくのです。その手腕たるや、読者は魔法を目の当たりにしているかのように呆然とするほかありません。
花から庭園の描かれ方に飛んだかと思うと、今度はグロテスク様式の話に行ったり聖堂の天井の話になったり、日本文化やモダンデザインまで言及したり、とてんこ盛りの内容です。
特にグロテスク様式の話は今の自分の興味に近い話がされていて面白かったです。ルネサンスで完成されたグロテスク様式は、現在日本で使用されているエログロのようなイメージとはやや異なるようです。もともとは植物文様の中に人間や獣の姿を混ぜわらせたものをグロテスクといったようです。そしてそれは人間中心主義ではなく、自然と人間とをまったく対等に扱う思想が工芸の中に結実したあかしであると氏は指摘します。バフチーンを引用して「グロテスクにあっては境界線は大胆に犯されている」=既存の体系からの「自由」だという思想こそがそこに隠されていることに焦点を当てますが、「根元はギリシャの宇宙論にあり、具体的にはその四元素論にあったと私は考える」と洞察します。そしてギリシャ神話の変身こそがものの本性であったというのです。この思想が息を吹き返したことこそ16世紀、ルネサンスだったというのです。(さらにシュルレアリスムの系譜まで言及します。)
また白眉の章ともいえる「花と髑髏〜静物画のシンボリズム」を読んでいた時には思わず目頭が熱くなりました。静物画に世界を見、季節を見、聖母を見、生命を見るまなざし。このまなざしを世界は失ってしまったのだ・・・と実感したせいです。
あとがきの中で、パフォーマンスという芸術にからめて「私はきわめて多くの芸術行為が「残らない」ものであることを指摘したかった。美術館に残存しているわずかな作品は、人類の豊穣な創造力の悠久の流れから漂着した漂着物に過ぎない」と語っています。この潔さ。こうした言葉にはそうそう触れられるものではありません。

新版へのあとがきの中で、氏が強い影響下にあったというアビ・ワールブルグの2つの名言を書いていました。
それを引用して終わりにしたいと思います。

「細部に神が住む」

「あらゆるものは関連しあっている」

まさに若桑みどり氏が実践したとおりです。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:アート

『マリエニスム芸術論』若桑みどり [美術]

若桑みどりさんの講義は、それはエネルギッシュで斬新で問題意識にあふれていて、聴き終えた後は意味もなく興奮していたことなどを思い出します。

ある時、講義が終わった後に質問をしに行きました。質問と言うか、その日の内容が明治時代の画家、小山正太郎についてだったので同郷の私としては一言お話したかったのでした。
(余談ですがこの小山正太郎という画家については日本の西洋画史には必ず登場するくらいのビッグネームですが、地元での知名度は今ひとつ。調べようと思っても参考になるのは司馬遼太郎の『峠』くらいでした、当時。あと「お山」の資料館には自画像があったはず)

帰りかけの背中に声をかけて、
「あの、小山正太郎のことなんですが・・・」
「あなた子孫?」
「いえ、同郷なだけなんですけど・・・」
「あ、そう」
そこでもう委縮して退散したんですけど。・・・懐かしい?思い出です。

そんな氏の専門である芸術様式のひとつであるマニエリスムについての論文集がこれです。

マニエリスム芸術論

マニエリスム芸術論

  • 作者: 若桑 みどり
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/12
  • メディア: 文庫

ずっと昔に買ってあったものの読む機会を逸していたのですが、このたびようやく読了しました。
で。
とにかくミケランジェロ、ですね。すっかりミケランジェロの彫刻に魅せられました、ワタシ。
名前もミカエルとアンジェロという天使の名前の組み合わせだというのを初めて知りました。その趣味的な感じがたまりません。
みなさん、ダビンチダビンチいってるけど、次はミケランですよ!!(ミシュランかっ)

ものすごく極論で言いますと、マニエリスムとはミケランジェロを頂点とした盛期ルネッサンスを築いた大家たちの技法・手法(マニエラ)を用いて、たんに自然を忠実に写しただけではなく、それをいかに美しく見えるように描くかということを極めようとしたということ(らしい)です。
炎のように、蛇のように、ねじれ、立ちのぼるような肢体を描くのがポイントのようです。

ポントルモ、 ロッソ・フィオレンティーノ、コレッジョ、パルミジャニーノ、アルチンボルド、エル・グレコといった画家たちが代表的だそうです。(すみません、アルチンボルドしかパッと絵が浮かびません・・・)

昔、思いきって買ったピナコテーカ・トレヴィルシリーズの画集(古書店で全巻セット1万円以下だった)のうち『マニエリスム』と『北方マニエリスム』を副読本にすると、あらふしぎ、この本に載っている絵がかなりの確率で掲載されているではありませんか!これは嬉しい。

ともあれ、この本を読むとマニエリスムの絵についての深い考察と隠された象徴などを知ることが出来ます。ただ、マニエリスムとは一体なんだったのかは章によって焦点が異なるので少々つかみづらかったです。別の本も読むか。ハウザーとかホッケとか。パノフスキーとか。

あとは『クアトロ・ラガツィ』もいいかげん読まねば。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。