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伊藤計劃さんのこと。 [小説]

伊藤計劃さんがお亡くなりになったそうだ。ブログを読むかぎり壮絶な闘病だったと思われる。
衝撃的だった「虐殺器官」については以前書いた。そして昨年末に発表された長編「ハーモニー」を年始に読み、これからもたくさんの鮮烈な作品を書いてほしい、ようやく同世代の好きな作家ができた、と期待していた矢先のことだった。
私はただの一ファンで、ご本人とはほんの一瞬すれ違ったことしかないから、お人柄もわからず推察しかできないが、さぞかし無念であったろうと思う。
私はただの一ファンだから、好きな作家がこの世からいなくなってしまい、次の作品を楽しみに待つことができなくなってしまったことを嘆くほかにない。
死に抗い、生きるために様々な闘いを続けてきた氏にむかって安らかに、という気分にはすぐにはなれない。ご遺族の方にはお悔やみを申し上げたい。
伊藤計劃さんには「素晴らしい本をありがとう。でも、もっともっとあなたの本を読みたかった」と伝えたい。
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『櫻の園』 吉田秋生 [漫画]


櫻の園 白泉社文庫

櫻の園 白泉社文庫

  • 作者: 吉田 秋生
  • 出版社/メーカー: 白泉社
  • 発売日: 1994/12
  • メディア: 文庫


あなたの考える完璧な少女漫画は?と問われて私が答えるのは吉田秋生の『櫻の園』かもしれない。
これを読んだのはたしか高校生の頃だったと思うが、当時の私はこれを「なんてえろい少女漫画なのだろう」と思っていた。男子が求めるえろさではなくて女子のそれ。赤面せずには読めないほどだった。こんなに赤裸々に女の子の現実を描いているなんて、と思っていた。それが本当のことなのかどうかは私にははかり知れない世界だったにもかかわらず、そこには「女の子の本当」がはっきり描かれているという直感があった。これは男子が読むものではない、とまで考えていた。あなたの考える最もえろい少女漫画は?と問われたら、当時の私なら即答でこれを挙げただろう。
吉田秋生といえば『櫻の園』。バナナフィッシュよりもこっちが好きだった(今でも)。しかしなにか近寄りがたい漫画家でもあった。私には『櫻の園』の本当の意味がいまだにわかっていないとずっと(今でも)思っている。男には永遠にわからない世界があって、それがこの漫画の中にあるのだと思う。何か再映画化されるとかで話題になったので、久しぶりに読み返してみた。
頭ではわかったつもりだった。若い頃に読んだ時よりもこの物語の何たるかがよっぽど理解できたと感じた。しかし、だ。
私にはやっぱりこの世界には近付けなかった。その近付けない距離感といったら高校生の自分とほとんど変わっちゃいないのだ。
高校生の時はこの漫画で描かれた女の子の態度や気持ちや会話の内容が半分くらいしか分かっていなかった。今ではそれらの意味も昔よりもはっきりと理解できる。しかし肝心の部分でやっぱりその内部には入り込めないのだ。昔も今もまったく進歩なし。
ここははっきり白旗をあげておくことにしたい。何に?・・・少女に。

「しかし マジでチャランポランをやるには これくらいでめげてはいかんのだよ」
この漫画史上に残る名台詞(私が勝手に決めている)。久しぶりに読んでも同じところで震えた。
絵柄もまったく古びていないし(これは1986年刊行だ)、ときおり挿まれるやまだ紫調のトーンの使い方やコマの切り取り方も美しいと思う。ファッションがどうのこうの言い出すのは野暮というものだ。
ひとつだけ、「ひどい あたし いろんな男の子とつきあったけど 売春なんて絶対してない お金なんてもらっていない 何いわれたっていいけど これだけはいや こんなのひどい」という台詞があるのだけれど、ここには少し思うところがあった。きっと今でもこういう台詞を言って涙を流す女の子はいるはずだけど、その言葉が意味するところが微妙にずれてしまっている現在では、ほんのわずかだが隔世の感を抱かずにはいられなかった。

あなたの考える完璧な少女漫画は?と問われて私が答えるのは吉田秋生の『櫻の園』である。
それは「完璧すぎて男には入り込めない少女漫画」という意味かもしれない。
もしくは「絵から台詞からコマ割りからストーリー展開からなにからなにまで完璧な少女漫画」ということかもしれない。
こういう少女漫画を読んで、私は自分が女の子だったら面白かったのかなあ、苦しんだり泣いたり笑ったりできたのかなあ、などとのんきに夢想したのだった。
そしてかつてこれを「えろいなあ」と感じた自分に対して「これをえろいと思うなら、お前は死ぬまでえろく生きねばならぬのだ」と説教したい衝動にかられるのであった。
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『東方見聞録』 岡崎京子 [漫画]


東方見聞録―市中恋愛観察学講座

東方見聞録―市中恋愛観察学講座

  • 作者: 岡崎 京子
  • 出版社/メーカー: 小学館クリエイティブ
  • 発売日: 2008/02
  • メディア: 単行本


今年のお正月に凧上げなどをしながら風の強い青空を眺めていて、ふと思い出したのがこの漫画でした。あの遠くまで透き通った青空によく似合うのです。
昨年を振り返って、個人的に最も鮮烈な印象が残った漫画でした。1987年にヤングサンデーに連載された作品。ほぼ20年前のものです。
岡崎京子が漫画を描けなくなってからもう10年以上も経っています。この空白が生じる直前の彼女の漫画は息苦しくて痛くてひりひりする辛さがありました。けれどもその痛さをもって生の実感をリアルさを感じて、それなしでは生きている意味がないというほどに読者に挑戦的に突き付けてくる凄みがありました。あるいは、そういった強迫観念めいた生を生きる少女たちを危ういバランスの上で踊らせていました。本当にあの頃、私は「この次は一体どうするつもりなのか」と思いながらも新刊が出るたびに読まずにはいられませんでした。『ヘルタースケルター』を単行本で読み終わったあとで(すでに彼女は漫画を描ける状態ではありませんでしたが)、私はなにか安堵を感じていました。そこには痛みだけではなくてそこを抜け出すための強さを登場人物が得ていたように思ったからです。それは多分に童話のような架空の物語のような終わり方だったのですが、確実に彼女の漫画が次の段階に進みつつあるのだと思わせる結末でした。嬉しかったのです。しかしその後の漫画はいまだに描かれていません。今の岡崎京子ならどんな漫画を描くでしょうか。
この空白期間に様々な過去の作品が復刊したり単行本初収録されたりして私の渇きを幾らかなぐさめてくれました。しかしその渇きは完全に満たされることがないのです。
ところがこの『東方見聞録』には心底びっくりさせられました。白状すると衝撃をうけました。あの満たされることがない渇きにすうっとしみ込んできたのです。しみ込んで私の裡のどこか分からない場所に確かに効いたのでした。
この漫画は、物語としてはボーイ・ミーツ・ガールもので、二人で東京の各所を巡って歩くというただそれだけのものです。ひねりも息苦しさも痛みもありません。そう、まったくといっていいほどそういったものがスコーンと抜けています。でも確かに岡崎京子はかつてこういう漫画を描いていたのです。軽薄?盛り上がりがない?時代を感じる?あるいは、時代を感じられない?
そんなことはカンケーありません。
ポップな絵とまっすぐな青春。底抜けな明るさ。もしかして、今の岡崎京子が漫画を描いたとしたらこれに近いものになるのでは?とあらぬ空想をしてしまいます。このスコーンと抜けているところが、今の私にズキューンと効くのかもしれません。『へルタースケルター』のラスト、あれは現実世界での嘘や取繕いや苦しみ妬み羨望を含んだ時代の空気に縛られた私たち(もしくは「岡崎京子の漫画」というある種の時代の指標となっていたもの自体)をも虚構によって吹き飛ばす、そんな試みだったように思えてなりません。
現実を吹き飛ばす強さというものは、現実というものの重さや性質を客観視するための一つの手段でもあるわけですが、この『東方見聞録』は彼女の漫画が20年前からずっとこの強さを持ち続けていたということを思い出させてくれました。
そしてやっぱり本を閉じた後に心に浮かぶ印象は、お正月の雲ひとつない、あの遠い青空なのです。
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多木浩二再読月間 [本]

先月、大蟻食様の明大の講義を聴きに行こうと思って予習のためにちょうど良いかな、と思って本棚から引っ張り出した多木浩二先生の『肖像写真』。ザンダーについても1章書いていたものだから、興味深く読めました。それで思ったのはやっぱり多木先生の文章ってスリムでシンプルでかつ含蓄があるなあ、ということでした。深い思慮をへた明解な論理展開が心地よいのです。そこまで断言するか、と思うときもありますが、説得力があるのです。

肖像写真―時代のまなざし (岩波新書)

肖像写真―時代のまなざし (岩波新書)

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 新書


この『肖像写真』ではナダール、ザンダー、アヴェドンという時代が異なる3人の写真家が撮った肖像写真をもとに、その時代にしかないまなざしを探っていこうとする試みています。つまり「顔の意味の歴史」について言及しようということです。
ちなみにナダールは19世紀後半、ザンダーは20世紀初頭、アヴェドンは20世紀後半に活躍した写真家です。
簡単にまとめてみましょう。
ナダールは同時代の人々を無数に撮っていく中で、ブルジョワジー社会というものの特質を無意識に浮かび上がらせたということです。言語化しづらいのですが、作家、画家、作曲家、政治家、俳優、といった当時の有名人(ちなみに写真集に載っているのは、ほとんど現代の我々も知っている有名人ばかり)の肖像写真を撮る作業の中でその個人を個人たらしめるある特質を備えたような人物像として写真に残しているのです。わかりづらいですね。つまり・・・例えばナダールの写真集の中でも女性ばかりを集めた写真集を眺めてみたのですが、ここにある人々は固有名は記録されているものの、現代の私がそれを見た時にまるで何も呼び起こされるものがない、ひっかかりがない、たんなる美しく着飾った19世紀後半の女性たち、という範疇でしかとらえられないものだったのです。古い外国の絵葉書によくあるようなイメージの写真。(これはこれで当時の女性がどのように演出して撮らせているのか、などなど考えさせるところが多くあり面白いのですが。)
ところが、ボードレールやらアレクサンドル・デュマやらドラクロワ、マネ、コロー、ドーミエ、ドレ(遺影も)、ベルリオーズ、ロッシーニ、コクトー、プルースト、ギゾー、などそうそうたる面子がめくってもめくっても出てくる写真集を眺めていると、とにかくその人物に対する色々な引っかかりや興味、すなわち個別性が、見る者に突き付けられている気がしてくるのです。必ずどこかで見たような写真があるのです。みんなナダールが撮ったんですね。
それまではカリカチュアという手段で有名人の個性を誇張して表現していたものが、写真という技術が生まれたことで誇張をする必要もなくその人物の個別性があらわにしてしまうことが可能になったのでしょう。それはいわば顔の圧倒的な存在を焼きつけることでした。その顔は社会的に侵食し、我々の記憶まで入り込んで様々に書き換えをしていきます。そう考えると我々は写真という実在する物体を通じても結局は己の思い込みや印象を微調整するほかない、あやふやな存在なのだなあと思わざるを得ません。
続いてはアウグスト・ザンダーです。以前の明大講義にも出てきました。この本では20世紀初頭のドイツの一地方ではありますが、あらゆる階層の人物、さまざまな職業の人々、家族、夫婦、若者たちといった老若男女を問わず全ての人たちを写真に納めようと試みた写真家として取り上げられています。そこにおぼろげながらも立ち現れてくるのは貧富の差、都市部と農村部の差、有名無名の差を超越したある民族の「貌」といいますか、ひとつの風景といいますか、無数の写真を集めることでそこに醸し出された空気を、風を感じられる気がします。ナダールが撮った同時代の人々の写真とは全然異なります。どこが、といわれるとこれも言語化しづらいのですが、現代の私がそれらの写真を見てもナダールのような記憶を引っ掻き回すようなことは全く起こらず、むしろ数を通してその固有の時代をその固有の場所を新しく知ることが可能であるような(錯覚をするような)気がしてくる写真なのです。といっても単なる記録写真に留まりません。字義どおりの意味での「民族の記憶」を再現させられているような気がするのです。
しかし、ザンダーの写真集が近場の図書館には無かったのでこの本に収録された小さなものしか見ていません。ちゃんと見てからもう一回考えてみたいところです。(ちなみにDVDが出てるみたいなのですが、これって写真集なんでしょうか?それともザンダーの生涯を辿ったドキュメントか何かなのでしょうか?それによって購入しようか悩んでいる最中なのですが。誰か情報求む。)
最後はアヴェドン。まったく知りませんでした、この写真家。ショッキングな肖像写真というのでしょうか。例えば最後の奴隷といわれるウィリアム・キャスビー。あるいはカポーティの『冷血』のモデルとなった殺人犯のディック・ヒコック。そしてその父親。ナパーム弾の犠牲者。死期が近づいた自分の父親。生々しいというか現実の生活の中からは目を背けたくなるような被写体を撮っている写真家です。ここではパフォーマンスという言葉を使っていますが、彼の撮る肖像写真から圧倒的に語りかけてくるものをそこに封じこめ、不穏な気配を刻み付けて、見る者と対峙しています。それは有名人の肖像写真も無垢な少年の写真も同様です。
アヴェドンの写真はそのパフォーマンスをもって何かを訴えたいとか、写真家はこれを意図しているのだとかいう言説にはまるで相反しているような種類のものだと思います。撮る側の人間の気配は極力排している気がします。にもかかわらず見る側の人間に引き起こすいいようのない感情は一体なんなのでしょうか。これが現代の写真家が写す肖像写真だとしたら、これは一体現代という時代のどういう側面を切り取っているのでしょうか。多木先生は悲観的な結論を記していましたが、もう少し時間が経たないと見えてこない問題なのかも知れません。ひとつ言えそうなのは、これらの写真が「撮る者」と「撮られる者」とそしてそれを「見る者」との間に生じるある種のコミュニケーションであり、それがどこか機能不全に陥っているようにも感じられるし、過渡期にも思えるということくらいでしょうか。
いやはやしかしこの新書の分量でこの内容の濃さ。さすがです。

思いのほか発奮させられたので、続けて我が家にあった多木浩二氏の新書をあらためて読み返してみようじゃないかと、続いて手に取ったのが『戦争論』。

戦争論 (岩波新書)

戦争論 (岩波新書)

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1999/09
  • メディア: 新書


これも20世紀末にでた本ですが、9.11以降に読んでもまったく問題ありません。恥ずかしながらこの本を読んでルワンダの虐殺を初めて知りました。(この前、テレビでルワンダでの加害者が被害者の家を建てることで罪を償うというプログラムを試みているのを見ました。それにしても殺されて埋められた人々を掘り起こしてそのまま記憶を風化させないために展示している風景は結構衝撃的でした。埋葬し直さないのでしょうか。死生観の違いなのでしょうか。それともそこで起きたことに正面から向き合うとあまりに異常な記憶だったせいでそうなっているのでしょうか。)
近代以降の戦争について考察し20世紀を総括する内容となっています。

それから『ヌード写真』。

ヌード写真 (岩波新書)

ヌード写真 (岩波新書)

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1992/01
  • メディア: 新書


この本も多岐にわたる話題と深い洞察が読みどころですが、私がうけたのはドイツに起きたヌーディズムに対し、ナチズムとの影響関係をふまえたうえで書かれた次の一文です。
「ヌーディズムという形をとった宗教的実践は、自らの文化あるいは宗教が性についてつくりだしてしまった罪の意識とのシャドウ・ボクシングのようなものだった。」
つまり禁欲が極限まで進むと宗教的ヌーディズムまで行き着いてしまうということ。なぜなら宗教的ヌーディズムの根本に、われらは性を克服した、だから裸でいられる、公開性交もできるのだ、という主張があるから、ということになるらしい。それを上のようにあっさり書いていたので思わず吹きそうになりました。

さらに『絵で見るフランス革命』。

絵で見るフランス革命―イメージの政治学 (岩波新書)

絵で見るフランス革命―イメージの政治学 (岩波新書)

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1989/06
  • メディア: 新書


これも良い本ですよね。絵解きフランス革命ではありません。当時、描かれたものから総体として浮かび上がってくるフランス革命。描かれたものは、すなわち多くの民衆の目に触れたものであり、それらが流通することで再生産される「革命中の現実」という空間があったのかもしれません。

最後に『20世紀の精神』の最終章、プリモ・レーヴィの『溺れるものと救われるもの』。アウシュヴィッツで生き残り、文筆活動をしてきた化学者は結局、自ら命を絶ってしまう(事故説もあり)。人間は悲劇から学び二度と繰り返さないという選択をすることができるのでしょうか。それとも人間は悪を繰り返す生き物なのでしょうか。そもそも悲劇を学ぶところからして怪しいものだと思ってしまう私ですが、たとえ学んだとしても状況に対する人間の無力さ、流されやすさというのもまた過去が教えてくれる事実であります。有名な監獄での心理実験もありましたしね。実験の中ですら人間は悪になりうるのですから。

20世紀の精神―書物の伝えるもの (平凡社新書)

20世紀の精神―書物の伝えるもの (平凡社新書)

  • 作者: 多木 浩二
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2001/02
  • メディア: 新書



というふうに予習だか復習だかわからなくなってきたあたりで、私がいつも楽しみにしている講義録がアップされた(「大蟻食様ストーキングメモ」を参照。以前、管理人の方にコメントをいただいたことがありました。以来よく見ています。講義録の公開は本当に大変な労力だと思います。大蟻食様の一ファンとして感謝しています。)ので読んでみましたら、ああ、行けば良かったと大後悔する内容でした。特に文化にも毒が含まれていて、他者を排除することに対して親和的、というくだりには私の中のもやもやが氷解しました。こういうことはテレビとかで見るいわゆる文化人はいいませんからね。すっとしました。

ところで多木浩二氏の生講義を何回か聴いたことがあります。私も若かったのであの独特の語り口に、最初はちんぷんかんぷんでした。(と、書くのも非常に恥ずかしいのです。)
もう一度、講義を聴いてみたいなあ。でもやっぱりわからなかったらどうしよう。

最後にブラッサイの写真集を借りたらとても良かったので紹介します。

ブラッサイ写真集成

ブラッサイ写真集成

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2005/08/24
  • メディア: 大型本


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『からん』木村紺 [漫画]


からん 1 (1) (アフタヌーンKC)

からん 1 (1) (アフタヌーンKC)

  • 作者: 木村 紺
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2008/10/23
  • メディア: コミック


『神戸在住』完結後に『巨娘』を発表し、それから満を持して連載が開始されたこの『からん』。第1巻をじっくりと味わいました。すばらしかったです。痛快無比なあの『巨娘』もまだ続きそうですし、ファンとしては楽しみが増えてきました。
さてこの『からん』、京都の女学園を舞台にした柔道漫画・・・と紹介したいところですがそれにおさまらない正統派学園物になりそうな予感です。もはや緩急自在になったシリアスとギャグのバランスとリズムがはまってしまうとクセになります。『神戸在住』では「カマトトぶってー」といいたくなる瞬間も多少ありましたが、単行本のカバー裏のわけのわからないテンションの高さから、実は猫をかぶっているだけだというのはおそらく多くのファンの思っていたところでしょう。それが『巨娘』で180度正反対へぶっちぎってしまい、木村紺という漫画家の潜在的ポテンシャルに恐れをなしたものでした。
そして『からん』はそのちょうど中間にあるような描きっぷりです。いやとうとう本領発揮といったところでしょうか。それまでのモノローグ的ナレーションが物語の進展に補助的な役割をしていた、独自の形式を封印しています。絵柄も意識的に変えています。それだけに作者の本作にかける意気がびしびし伝わってくるようです。新しいことへの挑戦。それはこの場合とりもなおさず「普通の」漫画として描くことに他ならないのですが。そしてその試みは今、成功をおさめていると感じます。形式に変化はあってもこの漫画には木村紺の烙印がくっきりと押されているのを読みながら感じます。そしてその変化によって描かれ得るようになった登場人物の内面についても「普通の」描写でなく、他の漫画が踏み込めていない深さへ一歩踏み込んだものを目指しているようにも感じます。
結果、濃密な構成と丁々発止のコマ展開によるたいそう読みごたえのある漫画になっております。
というわけで私はこの漫画を断然応援します。とても面白いよ。

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ブロッサム・ディアリー『ウィンチェスター・イン・アップル・ブロッサム・タイム』 [音楽]


ウィンチェスター・イン・アップル・ブロッサム・タイム

ウィンチェスター・イン・アップル・ブロッサム・タイム

  • アーティスト: アドルフ・グリーン
  • 出版社/メーカー: インディーズ・メーカー
  • 発売日: 2005/12/28
  • メディア: CD


女性ボーカルで私の五本の指に確実に入るのが、このブロッサム・ディアリーだ。その彼女の数多くのアルバムの中でも私が特に愛するのがこれである。あの独特な歌声は一度聞いたら忘れられないほどの個性だが、たまに食傷ぎみになる時もある。しかしこのアルバムは何度聞いても嫌にならない。
何も考えたくない時やあるいはむしろ考えることが多すぎる時にこれを聴く。何も聴きたくない時でもこの音楽は私に寄り添ってくれる。考え事をしていても邪魔にならず、むしろ考え事が進む。そういう聴き方ができる不思議な音。
彼女もとてもリラックスして歌っているのがわかる。個人的には日曜日の昼下がりにまったりと聴きたい。カーテン越しの日射しのような歌。しかし真夜中でも午前中でも全然いける。
よく名盤紹介で出されるヴァーヴの『ブロッサム・ディアリー』を私は入門編としてはあまりお勧めできないと思っているが、この『ウィンチェスター』は間口が広いので、ジャズ好きもポップス好きもヴォーカル好きもいけるんじゃないかと感じる。もしよかったらぜひ。
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YMCK SONGBOOK [音楽]


YMCK SONGBOOK-songs before 8bit-

YMCK SONGBOOK-songs before 8bit-

  • アーティスト: 井上陽水,森田童子,吉田拓郎,泉谷しげる,遠藤賢司,小田和正,友部正人,除村武志
  • 出版社/メーカー: エイベックス・エンタテインメント
  • 発売日: 2008/09/24
  • メディア: CD


YMCKのニューアルバムにしてフォークソングのカバーアルバムです。最高。
まず選曲がよいのです。陽水の「夢の中へ」なんかはまだしも拓郎の「人間なんて」、陽水の「傘がない」、エンケンの「満足できるかな」、そして特に友部正人の「まるで正直者のように」などは普通カバーしないでしょ。そしてこれら往年の名フォークソングをあのファミコン音でピコピコ鳴らし、女の子のウィスパーボイスで歌う。そんなことはこれまで誰もしませんでした。それをしてしまうYMCKが大好きです。もともとの彼等のオリジナル作品も好きだが、今回のこの企画には正直いってノックアウトされました。
人間なんてららーらーらららーらー・・・と、あの調子でポップに歌われると、無情な感じがいやまして素敵です。THIS IS POP!
小田和正のことはそんなに好きじゃないけれど、この「言葉にできない」のサウンドクリエイトは素晴らしいものでした。
フォークソングのウェット感を完全に踏みにじるこのピコピコ8bit音楽は、しかしある世代にはある種の郷愁を感じさせる音です。それはフォークソング全盛の70年代にまさに生まれた私のような世代に直撃です。訥々と歌い上げることで我々の親たちの共感を得ていた歌が、このように生まれ変わり、それを享受する子供たちがいるという事実。これをフォークへの冒涜とみるのか、それとも遊び心と許容するのか、それとも大まじめととらえるのか。
少なくとも、歌はこの転生に耐えうるだけの強靭さを持ち、音に決して負けていません。言葉は老朽化せず、メロディは今なお訴えかけてきます。そして、私はこの「踏みにじり」加減がとても好きなのです。一足とびで先に進もうとする決意と確信、踏みにじってはいけないと誰かがいうその頑なさを蹴飛ばしてしまうような強さに憧れます。
キャッチーですが、ある意味とても渋いアルバムです。


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よつばと!考つづき [漫画]

友人のkubiさんがトラックバックをしてくれたので調子に乗っています。ありがとう。
あの記事は一個人の見解以上のなにものでもありませんが、あれを書いた後で記事を読み返してみると「そうじゃない、違う、そうじゃない」ということばかりが(自分で書いたくせに)目に付きました。
例えば、「よつばが成長して普通の常識を携えた分別のある少女になってしまったとしたら、この漫画は続けることができなくなると思う。」というのも、もしかしたらそうじゃない気がしてきました。すでによつばは8巻の時点でそれまでの「よつば特有のキャラ」を失いつつも、これからのキャラを新たに獲得しています。それはまた今までもずっとなされてきたことであり、よつばは(ありていにいえば)成長しているのです。よつばの突飛でもない行為は8巻においてはあまり見受けられず(ぼくじょうマンでさえ普通の子供っぽい遊びに見えます)、お祭りのおみこしや、どんぐり拾いに至ってはもはやうちの子とあまり変わりのない感じなのです。(「とーちゃんあきしってる?」みたいなことはうちの子も言っていた。「はっぱがあかときいろになって、しんごうみたいだよねー」なんて。)
にもかかわらず、読者はよつばを「よつば」とみなしていくでしょう。つまりふつうの子供とおなじアクションを起こすようになってもこの漫画が終わってしまわないことを示唆しています。それはまさに読者が「よつばと読者」状態をこれまでずっと続けてきていてよつばの成長をよおおく知っているからといえましょう。作者もどうもそのあたりを踏まえてよつばの行為から突飛なことをあえて抜かしてきているのではないかという気がします。どこまで抜いても大丈夫なのか、試行錯誤しているのではないでしょうか。
これから気になるのは、よつばとまったく同年代の友達が登場してきた時にどうなるのか、ということです。よつばと同じくらいのポテンシャルを持った子供がからんできたときには一体どうなることか楽しみです。案外フツーかもしれませんが。
話を戻すと、よつばが今後も普通の子供に向かって成長していくのであれば、今まで私たち読者が感じてきたこの漫画の面白さの質も変わっていくのでしょうか?たしかに他の漫画においても冒頭はあるキャラクターがその特異なキャラ設定で物語を牽引し、ある程度軌道に乗ったところで脇役と主役とのからむシチュエーションだけで引っ張っていくことがよくありますよね。この漫画でもシチュエーションと人物たちのからみあいで成立する話がこれまでもいくつかありました。よつばの特異なキャラが薄まっていくにつれてこれからはそういう周囲の人々との関係性で物語がつくられていくのかもしれません。お祭りでこれまでの脇役たちが総動員されたのもそういう予感を感じさせます。
そうであれば、例えばよつばが小学校に入学することになってもそこまでの過程を必ず丹念に描いていくのでしょうから、何一つ違和感なく描かれるかもしれません。kubiさんが書いた「よつばと登校」なんて実は私にはけっこう絵が浮かんでしまいました。そうするともう「よつばと!」は無敵なわけで、いつまでもどこまでも描き続けることが可能なのでは、なんて思ってしまうのです。
「よつばと卒業式」「よつばと修学旅行」「よつばと試験勉強」「よつばと成人式」(・・・ああ、私は死んでるな、その頃。)
逆に、「よつばと!」はいつでも最終回になりうるともいえるでしょう。なにごともない人生に(しばらくは)終わりがないのと同様に、終わりらしい終わりにはならないのかもしれません。そしてそれがこの漫画にはふさわしいと思います。
この漫画は、物語とは一体なんなのか、ドラマがなくても成立していくのか、それともこれが新しい形なのか、などなどいろいろと勘ぐりたくなる要素がたくさんあってそれで飽きないのかもしれません。
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『よつばと!』あずまきよひこ [漫画]


よつばと! 8 (8) (電撃コミックス)

よつばと! 8 (8) (電撃コミックス)

  • 作者: あずま きよひこ
  • 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2008/08/27
  • メディア: コミック



友人のブログで『よつばと!』が何がどう凄いのか?というので、いっちょ考えてみるか!ということで以下の文章を書いてみた。おもに『よつばと!』が描いてきたもの、あるいは描いてこなかったものについてこれまで意識下で考えてきたことを言語化する試みである。これが友人に対する回答になっているかどうかは心許ない。というか、自分が一度はきちんと言語化しないと気が済まなかっただけである。
では・・・

かつて漫画批評家の伊藤剛氏が行った作者インタビューの中で、伊藤氏の友人の話として、この物語は実は小岩井氏とジャンボが(もういなくなってしまった)よつばを回想しているものなのではないか、という予測を当の作者を前に披露している(ユリイカ2006年1月号)。
作者は(笑)で軽く受け流していたが、そういう妄想をかきたてるくらいこの漫画の持つ解釈への間口は広い。むしろ「我こそ漫画読みだ」と自負している人ほど、こういった予測が自然に浮かんできてしまうのではないだろうか。つまり、それまでの漫画読書経験から容易にありそうなストーリー展開への派生を参照し想定してしまう読者ほど、読みへの欲望(ひいてはそれがこの漫画自体への求心力となりうるものなのだが)を刺激されてしまうのだと思う。
ところが、逆説的だがそういう予測や一面的な解釈や「お話」への回帰こそ、この『よつばと!』が忌避しているものである。もう少し言い換えると、従来の漫画が駆使してきた(それこそが商品としての価値だという考えに基づく)「物語へ読者を引き込むためのストーリー展開」や「次回への引き」や「あっといわせる主人公の能力とか秘密の出自」(これらはすべて同じ意味だともいえる)などなどに対してすべて肩すかしをくらわせているのである。
もう一歩だけ踏み込んでみると、読者が物語に引き込まれると(作り手側が)考える安易な手口として、例えば「よつばの出生地」「よつばの本当の両親の消息」「よつばと小岩井氏の出会い」「街へ引っ越してきた理由」などを話が進むにつれて徐々に開示していく、という方法が考えられるだろう。しかし作者はそれを決してやらない(上記のインタビューでも設定を決めていないと発言したり、登場人物の背景は今後も描かないと断言したりする)。
そういった大多数というか安直というかやり尽くされた「手法」をこの漫画は採らない。この「手法」を選択してしまうと、ストーリー展開は謎解きの要素を中心にドラマティックに変化するのだろうが、逆にその重力に捕われてしまい逃れられなくなるだろう。こうした劇的な動きを作者は望んでいないのである。
その代わりに、この漫画の世界をまるごと読者に差し出すことを選択したようなのだ(うまい具合にそうした読者の脳裏に浮かぶ「お話」への欲望をくすぐる程度に匂わせたりはするのだが)。
結果的に読者はこの世界の中の登場人物の一人として開かれた門戸から入り込むのだが、そこでは読者は読者という特権を与えられることがない。教えられる情報はこの世界の登場人物が知りうるものに限られるし、見られるものや話されることにもある一定の制限が設けられるのである。

この前の「BSマンガ夜話」の中で「あれは『Dr.スランプ』を直球で描いたのだ」という話があったが、私もよつばはアラレちゃんだとずっと思っていた。第1巻での小岩井氏の台詞「よつばは無敵だ」にも象徴されている。
アラレちゃんは可愛い眼鏡の少女姿をしているが、その実強大な力を持つ「めちゃんこつおい」ロボットだった。『Dr.スランプ』のストーリーはその設定によって牽引される部分もいくらかあった。小さくかわいい少女が建物を軽々と持ち上げて地平線の彼方へ投げ飛ばし、なめてかかった相手は目玉が飛び出し鼻水がたれあごがはずれるのに気付かないくらい驚愕する。そのギャップを読者は面白がった。アラレちゃん本人は無自覚で物を破壊するし、物事の本質をずばずばと指摘して目の前の状況を無化することで、いわば彼女が通ったあとは草一本残らないほどの壊滅を引き起こしていたのである。(それはそれで批評的な設定だった。物事の尺度が「つおい」か「つおくない」かで測られることに読者はある種の痛快さを感じていたに違いないからだ。「好き/好きじゃない」とか「良い/悪い」などの単純な二元論を揶揄していたとも読める。)
しかし、よつばはアラレちゃんではなかったのだ。それは第2巻第13話で覆される。
そう、よつばがみうら扮する目玉人間に迫られて真剣に大泣きする場面だ。無敵に思えたよつばが弱みをみせた日。「あーあー」と泣くよつばを読者は(みうらと同じく)はたして予想しただろうか。
私はあそこで「よつば=アラレちゃん」説を捨てざるをえなくなった。当然、よつばは完全無敵ではないし、状況を焦土化しつくすほど傍若無人なのではない。この漫画はその設定が面白いわけではないのだ。
よつばが目玉が怖いという事実も、例えばドラえもんのネズミ恐怖症のように完全なる設定として扱われるのではない。なぜ目玉が怖いのかという理由すらはっきりしていない。おそらく理由は決められていないだろう。またドラえもんのように話の端緒にもオチにもこの設定が使われることはないだろう。そしていつかきっと知らぬ間に理由もなく説明もなく克服されてしまうだろう。
ところで、この大泣きした日の後も、よつばの無敵っぷりは健在である。しかし牧場に行く前日に熱を出して行けなくなった時にも、よつばは無敵どころではなく風邪にやられて寝込むしかなかった。都合良く熱が下がったり、それでも無理を押して出かけたりはしないのである。その判断は漫画の作者ではなく小岩井氏の判断に委ねられている。読者は都合良く熱が下がって牧場に行くことができたという「お話」を欲望しうる。しかし、その欲望には決して沿わないのがこの漫画なのだ。
「BSマンガ夜話」で夏目房之助がこの漫画を「(比喩的にいうと)回転のない直球だ」と発言していた。これには座布団を一枚あげたい。言い得て妙である。

さて、作画、コマ割り、構図などについてまだまだ書きたいことは山積みなのだが、いったんここで止めるべきだろう。
その前に、実際によつばと同じ年齢の女の子を子供に持つ「とーちゃん」として一言書いておくのも無駄ではないかもしれない。
よつばは決して本物の子供のような言動をリアルにするから面白い、のではないと思う。よつばはリアルな5歳児ではない。かなり似ているところもあり、絵や字の発達状況といった面は忠実に念頭に置いて描かれていると思う。しかしリアル5歳児の言動に忠実に描いたとしたら、ここまで面白い漫画にはなり得なかったこともまた事実だろう。
「BSマンガ夜話」に送られたファックスに多くあったのが「よつばみたいな子供が欲しい」とか「育てたい」とか「かわいい」とか「癒される」とかいう内容だったのだが、私と一緒にこの番組を見ていた妻は一言「よつばみたいな子供は欲しくないし、ああいうふうに育てたくない!」と言った。私も欲しいとは思わない。リアルな子供は、よつば以上にしんどい時がある。
あのよつばに体現される子供像こそが『よつばと!』最大のフィクションだ。しかし、よつばが実在の子供とはちがうことを感じつつも、漫画は漫画として大いに楽しむことができる。つまりこの漫画は、よつばがリアルだから面白いのではなかった。(テヅカイズデッド風に云ってしまえば、よつばが子供のおばけすなわち「キャラ」であるからだ。・・・この解釈、正しい?)
以下にいくつか理由を書こう。
第一に、よつばは実在の子供よりもわがままではない。むしろききわけがよすぎる(うちの子が異常にわがままであるという可能性もぬぐえないが、たぶんそうではなさそうだ。大抵の5歳児はもっともっと執拗にわがままだ)。
第二に、よつばには子供っぽい独占欲が感じられない。言い換えるととーちゃんに対する甘え方が違う。ま、そのあたりは「BSマンガ夜話」でも疑似家族という点で少し触れられていたが、とーちゃんは本当の父親ではないし、父親役を演じているわけでもない。だから甘え方ひとつとっても親子関係(疑似であっても)の中の子供の甘え方とは異なっているように感じる。そういえばよつばは小岩井氏のことを「とーちゃん」と呼ぶが、これまで自分のことを「とーちゃんのこども」という言い方で説明していないのではないだろうか。「こども」という概念に気付いていないのかもしれないが。
第三に、よつばは前述したような「お話」を喚起するような己の背景に引っ張られることはまるでないが、シチュエーションの中で進行するギャグには引っ張られて従属している。きわめて自然な形で参加しているが、ギャグが生まれてくる場面で唯一、作者の存在が感じられる(でも作者は別に作者の存在をひた隠しにしているわけでもなさそうだけどね)。
よつばがよつばのキャラを維持し続ける限り、この漫画は漫画として成立する。よつばが成長して普通の常識を携えた分別のある少女になってしまったとしたら、この漫画は続けることができなくなると思う。おそらくその時には最終回を迎えることになるだろう。
だが、このよつばをよつばたらしめているこのキャラは、よつばが経験を重ねるたびに消耗し失ってゆく運命にあると思われる。すでに失われたものもあるだろう。個人的には小学校に入学して普通に授業を受けているよつばの姿を今のところ想像できない。もしもそれを逸脱することでよつばがよつばであるならば(その逸脱は現在は周囲に見守られて受け止められる範囲の逸脱なのだが)、その時の逸脱は周囲のフォローがきかない社会的な問題につながっていってしまうからだ。だから『よつばと!』は終わってしまうだろう。
しかし私はつい夢見てしまう。もしも、このよつばのキャラというもの凄く綱渡り的な「かたち」をその先も維持していくことができたらならば・・・逸脱をしてもなお「お話」にとらわれず、かつよつばが(その時の)よつばたりうる魅力を保持できるという刃の上をつま先で歩くようなことができたとしたなら・・・あずまきよひこという漫画家はこれまで以上にとてつもない革新をやってのけることになるだろう。その時に漫画は新しい段階へと昇ることになるだろう。どうか夢を見させて下さい。

つい先日発売された8巻ではすっかり秋めいてきた「よつばと!」世界だが、ここにきて時間が少しずつ飛びはじめている。
1話から35話まではほぼ1話が1日だったのが、36話から9月1日(月曜日)になり、続く37話から55話までの18話では10月中旬(おそらく13日)まで飛んでいる。およそ2日に1回のペースだ。これが今後も続いていくのか、それともまたいつかの時点でペースが早まるのかはわからないが、いずれにせよさりげなく変化は訪れている。
毎回目が離せないが、これからも全く目が離せない。次巻が出る頃には、うちの子もすっかりよつばの年齢をこえてしまうだろう。よつばの一年が経つ頃には中学生くらいになっているような気がする(そこまではいかないか)。
あずまさん、がんばってください。
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東京都美術館『フェルメール展』 [美術]

さて、上野公園を横切って東京都美術館『フェルメール展』。この前の新国立美術館で手酷い仕打ちを受けた後遺症も残ったままでしたが・・・。そんな中、あえてこれに向かった理由はただ一つ。
どうしても「小路」が見たかったから。
フェルメールの風景画は世界に2点しか現存していませんが、この2点とも傑作だと思います。それがこの「小路」と「デルフト眺望」。いっとき私の職場のパソコンのデスクトップは「デルフト眺望」になっていました(サイズがぴったりだったし)。なにか目立つ建物があるわけでもありません。また空は曇天に近く、明るい風景でもありません。にもかかわらず目が釘付けになってしまうのはミニチュアのような人物が点々と描かれているためかもしれません。
この「小路」が展示されているという一点だけで、私は人ごみで息苦しい会場に飛び込む決意をしました。なぐさめ程度に混雑状況を携帯電話で確認しながら(一日中20分待ちでした。あれって何を基準にみてるんでしょうね?)。
「小路」にも小さく省略された筆致で描かれた人々が4人配置されています。その誰にも焦点は合っていませんし、その風俗を描こうという野心も感じられません。非常にニュートラルな眼で景色をすっぱりと切り取っています。空間的にも、時間的にも。その一瞬を画面に空気ごと封じ込めているのです。この世界の構築はまた前述のミレイのそれとは異なるものでした。時代も国もまったく異なるものを比べても仕方ないですが、現実を絵に定着させる方法とその結果もまた千差万別であるということでしょう。
他のフェルメール作品は「小路」ほど熱心には見ませんでしたが(なんせ人の頭ばっかりで)、見どころとしては従来の青空を洗浄したあとの「ディアナとニンフたち」と、急きょアイルランドナショナルギャラリーから借りてきた「手紙を書く夫人と召し使い」でしょうか。個人的には「絵画芸術」よりも嬉しかったです。
「ディアナとニンフたち」は個人的には青空を描き足した画家の気持ちが分かるような気がしました。あれはあれでありだったのではないでしょうか。もったいない。ま、学術的にはいかんということなのでしょう。
「手紙を書く夫人と召し使い」は、たぶん私はアイルランドで見たんだろうなー、覚えてないけど。貸し出し中だったのかなー。召し使いを中心に据えた構図とカーテン越しの自然光のたおやかさ、窓のデザインの複雑さ、背景の絵の暗さ、前景にかかる幕、床の(毎度おなじみ)市松模様、落ちている物体、青と赤の対比などなど絶妙な配置が見る者の欲求をかきたてたりなごませたりします。これは名品だと思います。
ところで、フェルメールの絵をじーっと眺めているとだんだんモンドリアンの絵を思い出すことってありませんか。私だけではないと思いたい。それはないにしても、だんだん絵が色と形だけに見えてきませんか。それはおそらく直線の使われ方からきているのだと思います。画面の中の直線が、実際には同一平面上にあるはずのない人物に必要以上に干渉しているせいです。
例えば「リュートを弾く女」の地図の下端の部品がもう少しで女の頭に突き刺さるところです。なぜ画面のほぼ中心にこの部品を置いたのでしょうか。わかりませんが、この配置がこの絵を引き締めていることは確かです。普通ならばこれだけ隣接していたら画面の均衡が崩れてもおかしくないのに(奥行きの効果によるのだと思いますが)かえって引き締まっています。座布団一枚。
あるいは「ワイングラスを持つ女」の斜めに開いている窓枠と背景の絵。絵の額縁の右下部分が男の頭に接続されています(だから何といわれると困るけど)。例えばこの絵の右上に他の絵のように前景に幕がたれていない理由は何でしょうか。おそらくそれは同じく画面の右下に女のドレスの柔らかい襞がたっぷりと占めているからでしょう。また窓枠の入り組んだ意匠と色彩が凝集しているのは柔らかい女と男と単色の強烈さがそこにあるからだと思われます。硬くて複雑でカラフルである必然性がそこに見いだせます(勿論どっちが先かという話ではないですが)。
以上のように大雑把にみていってもフェルメールの画面配置がまったく無駄のない絶妙なバランスの上にあることがわかります。
最初に戻って「小路」ですが、この絵がこれほど魅力的なのはなぜでしょうか。先ほどいったミニチュアの人物が粒粒のように景色に置かれているという点に大きな魅力を感じていることは確かです。この人物がまったく存在しない画面だったとしたらこれほど魅力的だとは思えません。
もしかしたら、このうちの一人をクローズアップしていくとフェルメールの室内画になるのかもしれません。右下のなにか繕い物(?)をしている女性にむかってどんどんカメラを近付けていきます。と、ある一点にさしかかるとフェルメールの構図と真っ暗な室内になにか物体が見えてくるかもしれません。それで一枚の絵になるのかもしれません。あるいは小路の奥にいる女性の姿へクローズアップしてみると、これまた一枚の絵になりそうです。ひとつ云えることは、画面の各所でこういった色々な構図をとることが可能であるように景色が描かれているということです。それは風景画であれば当たり前のようですが、他の画家の絵ではそこまで簡単ではありません。これは(素人考えですが)フェルメールの風景画の特徴の一つといえるかもしれません。この風景画の下3分の1は人物ごとにそれぞれ3枚の絵に四角く切り取って分けることができるように思えます。
しかしそれがこの絵の美しさの秘密の核心部分ではないと思います。部分の構図がとれるくらい隅々まで計算して人物を配置したからこの絵が素晴らしいという話ではないのです。それは秘密のうちのほんのわずかな分でしかないと思います。それにたぶん、フェルメールはこれら想像上の3枚の絵を描こうという気は起こさなかったでしょう(理由は、この絵には影がないから、だと思います。ということはすなわち光もないから、ということでもあります。フェルメールの室内画はほとんど左に光源があって物体や人物の右側に陰影がつきます。しかし、この風景画の光源はどこかといわれればおそらくこの絵を描いている人物の背後だといえます。もしくは曇天のために陰影が生じないということかもしれません)。
場所は未だに特定されていませんが、彼はこの小路のある風景の「原型」に出会ったのだと考えられます。書割りのような建物の脇に奥行きを感じさせる小路のあるこの場所を見つけました。いや、むしろ彼の眼がこの風景のこの構図を切り取ったというべきかもしれません。建物の色は実際とは異なっていたという可能性だってあります。雨戸の色もしかり。フェルメールの場合は、現実ありきではなく、構図と配置が優先されるからです。
この絵でひときわ目立つのは1階部分の壁にさっと鮮やかにひかれている白です。これがいわば光の反射であり(すなわち他の室内画における背後の壁の明るさに等しい意味を持つ)、残りはすべて陰影だといっても過言ではないかもしれません。例外は曇天の雲です。これもまた光の反射そのものであり、壁の白と対になります。ここでも前景と背景という対にバランスが見いだせます。わずかな青空と左側の緑に対するのが建物の赤銅色でしょうか。
窓の黒と、その同質の黒い背景にくっきりと浮かび上がる座った女の姿。さらに壁の白のまぶしさで私の目は焼きつけられてしまいます。しかしなんといってもこの部分のハイライトは女性の右上の開かれた雨戸の鮮烈な赤!です。これがなかったらこの絵が完成しない程の赤です。となると外せなくなるのが反対側の閉まった雨戸のくすんだカーキ色・・・というふうに連鎖していくのでこの絵は飽きません。
建物をはさんで人物たちを結ぶ三角形。遠景の屋根が空を切り取った三角形。雲の柔らかさと人物の柔らかさと建物の直線の硬質さ。ぬかるんでから乾いた跡の地面。色が剥がれ落ちた上階の雨戸とビビッドに塗り替えた下階の雨戸。子供と壮年と老年の異なった時間の流れ。・・・戯れ言になってきたのでもうやめます。

他の展示ではヘラルト・ハウクヘーストの「ウィレム沈黙公の廟墓があるデルフト新教会」なんか良かったです。ピーテル・デ・ホーホも数点見られて満足。例の新国立よりは数倍まともでした。
それにしてもあの音声解説だけはどうにかならないものかな、と思います。ただでさえ渋滞している絵の前でイヤホンをつけた人々が陣取って動かない姿にはちょっと我慢なりません。聞かずに絵を見ろと言いたくもなります。そもそもあれは邪魔じゃないか?どうしても聞くなら離れたところでお願いできないものでしょうか?純粋に見ていて時間をとるのは(自分だってそれをするから)仕方がないとあきらめがつきますが、あの混雑と行列待ちの中で解説が終わるまで動かないというのは少し文句も言いたくなります。美術館側もそのへん考えてほしいところです。
だからフェルメールを独り占めできた体験というのは、もうこの上なくかけがえのない時間なのだと思います。私は2回、「小路」の前の行列に並んでゆっくりと動くのを待って真正面から絵を貪りました。それでも足りないし、本当なら独り占めしたかった。絵はがきなんぞでは再現できない本物の色を目に焼付けたかったのです。画集の色も全然ちがうし、本物を見た後でそれらのレプリカを見たら目が汚れるとまで思ってしまいました。
もしも独り占めできた記憶があるとしたら、私は嫌な思いをしてまで何度も見に行こうとは思わないですね。その大切な貴重な記憶で満足します。再び独り占めできる時まで。

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