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『陽だまりの樹』手塚治虫 [漫画]


陽だまりの樹 (1) (小学館文庫)

陽だまりの樹 (1) (小学館文庫)

  • 作者: 手塚 治虫
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1995/05
  • メディア: 文庫



実家に帰省してきました。帰省するたびに本の整理をするのが私の義務というか仕事になっていまして、周りにあきれられながらも押し入れから段ボール箱を引っ張り出してきたり、床下にもぐってホコリだらけの本を探し出すのです。
なぜ周りがあきれるのかというとまた長くなるのですが、要するにそこまで本をためて置きっぱなしにしたのは私なので、それらの本を整理して不要なものは売り払うところまで手配して責任を果たそうとするのですが、なんでそんなことに躍起になっているのか周りはさっぱり理解できないので「せっかく帰省しているのだから、のんびりすればいいのに」とか「今やらなくてもいいでしょ」といわれてしまうのでした。だから年に数回の帰省で少しずつ整理してもなかなか本が減らないのです。
が、今年はやりました。かなりの本を減らしました。というかもう置いておいても今後読まなそうなものはいらない!という不退転?の意気込みで古書店へ持っていきました。
某大長編や思い入れの少ないファンタジーRPG小説のたぐい、陽焼けしまくりのサガンの文庫とかなんで買ったのかわからない新書のいくつかとか、ぼーんと5箱くらい。
それでもまだ7箱くらい残りました。その中から、持って帰りたい本やCDを選んで箱詰めしたら2箱になりました。全部持って帰ろうとしたら止められたので、一箱のみ。残りは引き続き実家預かりです。いつまでこんなことをやっているんだ私は。

そんな箱の中に手塚治虫の『陽だまりの樹』がありました。晩年の大作です。正月は『アドルフに告ぐ』だったので、今回はこれを読破することにしました。
この長編は手塚の曾祖父である蘭学医の手塚良庵と、もう一人の架空の武士である伊武谷万二郎を主人公に、彼らの目線で幕末を描いています。世に幕末を描いた小説、漫画は数多くあります。手塚自身もすでに新撰組を描いたことがあります。しかしここでの描き方は、歴史上の人物が豪華絢爛にきらめく群雄劇などではありません。あくまで良庵と万二郎の人生を中心に、歴史上の事件や人間関係に翻弄される市井の人々を描いているのです。
さて今、歴史上の、と書きましたが、日々起きる事件には歴史上もくそもなく、起きてしまったことは元には戻らないし、それが歴史に残るか否かはその事件の当事者や傍観者にとっては実際どうでもいいものです。にもかかわらず、歴史に名を残したがる人はわんさといますし、今では凶悪な犯罪を犯すことで有名になりたがる者もいるくらいです。正であれ負であれ名をのこしたいという欲求はどこから出てくるのでしょうか。そりゃ私にだって多少はあります。名を残したいというよりは、自分の納得のいく何かを、なんでもいいから何かを残した(と思いた)い。死ぬ時にこれだけは自分はやった、と思わないよりは思って死にたい。そんな欲求はあります。
話がそれましたが、歴史に残らない事件なんて毎日、毎時間、毎分、毎秒起きています。それらの無数の出来事を羅列しても永久に歴史にはならないのと同じように、それをそのまま漫画に描くとしたら、これほど意味がないこともまたありません。そもそも漫画になりません。だから、市井の人々を描くことがイコール現実的な地に足の着いた真の歴史だとか、立派な漫画だとか、そんなことを言う気もまるでありません。
ではこの漫画で志向されている目線とは何なのでしょうか。もちろん当時の社会の中で地位の低い主人公が既存の権力と対立していくが、時代の勢いによって少しずつその地位が認められていく姿を描いた、というのは一番オーソドックスなところでしょう。しかし、同時にそこに描かれるのは、猪突猛進の性格の万二郎が武士としての拠り所(名誉や正義や誠実さなど)を過剰に思い込むことにより失敗を繰り返す姿や、にもかかわらずその性格によって周囲の信頼を勝ち取っていく姿や、逆に拠り所が徐々になくなってしまい最後は迷走してしまう姿などです。(漫画自体も最後はやや迷走気味です)
とてつもない成功や勝利、あるいはとてつもない失敗、敗北は歴史になりえます。しかし、歴史に乗り切れなかった人々やそもそも歴史に残る事件にまるで関わりのなかった人々や事件に関わっていてもその他大勢の一人に過ぎなかったとか、そういった人々は歴史に残りません。
手塚良庵にしてもいまや手塚治虫の先祖といわれることはあるにせよ、この漫画が描かれるまではそういう残らない人々の中にいたはずです。そういう人々を現代に甦らせるために手塚はペンをとったのかもしれません。しかし当然、派手な物語にはなりません。そこで生まれたのが万二郎だったのだと思います。まったく架空の人物。当たり前ですが歴史には残っていません。けれども良庵に比べるとよっぽど歴史上の事件に陰で関わることになります。狂言廻しとしては派手だし、突飛だし、にもかかわらず魅力的なキャラクターなのでした。それでいて良庵というキャラクターを食ってしまわない程度のバランスが非常によくとれています。
後半に、この二人の主人公が飲みかわす印象的な場面があります。その一コマを描きたかったのだろうなと思わせるコマがあります。そこがこの漫画のクライマックス。あとは終息に向かうのみです。(これ以降は漫画自体の集中力がガクッと落ちるような気がしました。良庵の動きはぱっとしないし、万二郎は先に述べたように迷走してしまいます。)
歴史は全て未来から見ている筋書きのある物語のようです。歴史に残っているのは(未来から見て)その物語とずれていない人物です。しかし、この漫画では未来は不確定のものであり、キャラクターたちは歴史的に正しいことをするわけでもなく、むしろ相当ずれた行為もするわけです。ほとんどの同時代に生きている人々は未来が見えていない、ということをこの漫画は描くのです。そしてそういう人々はたまにこういう珍しい漫画に愛惜を込めて描かれない限りはその存在すらもなかったことにされてしまうのです。
ともあれ、それについてとやかく言うつもりもありません。歴史に残らずに死んでいく人間もごまんといるんだー!と怒鳴る気もありません。こういう物語がもっと多く読みたい、それだけです。

『崖の上のポニョ』 宮崎駿 [映画]

とんでもない雷雨と豪風が町を襲った次の日、『崖の上のポニョ』を観に行ってきた。なんともタイムリー?
話の筋とはまったく関係なく、見ていてじーんとして泣きそうになってしまった場面がいくつもあった。べつに感動的な場面ではないのだが。しかし、うごめくあの濃い画面に圧倒されながら、心の琴線(べたな表現ですが)をぶちぶちぶちぶち、と切断するそうした瞬間があった。(触れるんじゃなくて、切断。突き破られる感覚)
宮崎駿は進化している。前2作での成果の手応えを感じながら、ますます自在にアニメーションを生み出していく。あの濃い画面を全編に渡って動かすために必要なシンプルな物語。想像力の海。
そうだ、これすべて海なのだ。海からまとまった形を作ろうとすれば水を器に入れるしかない。しかし今回は海は海のままだ。
人工も自然も飲み込みながら、海は流れ、たゆたい、静まる。地形に応じて流れ込み、こぼれ、破壊する。あるいはさあっと引いていく。
月は地球に近づき、人間たちは寄り添い集まる。自然も人工もひっくるめたある法則のもとに。それは重力や温度や磁力や電波など目に見えないものが従う法則に近い。
その法則の禁忌を突き破って、魚と半魚人と人間の境目は曖昧になっていく。異なる世界の法則(こちらに顕現する時には魔法)がこちらの世界に浸透してくる。時間も空間もごちゃまぜ、あべこべにしながら。結果が過程を変えてしまう。
老女たちを立たせ、歩かせ、走らせるために町は海に沈まなければならなかった。母親たちや子供たちを歩けなくさせ、山の上や崖の上に取り残させるために。

ポニョは自分の意志で人間になろうとし、手足を出して走り回る。
宗介は崖の上と下を行ったり来たりする。老人と幼児の間も行ったり来たり。母親と父親の間も。
リサは車で疾走する。耕一は船で働く。動くこと、人間が生きて動いていくということ。
対照的に人々の心は一途に動かない。心は空気の海の底に生きる人間にとって重りであり、錨であり、その場に留まるための中心である。世界の変容に伴って、少しずつ揺れ動いたりもするが、その空間に落ち着くための切っても切れないものである。
ポニョと宗介の心は、海辺で出会い、大波にさらわれて大きく動き、そして離ればなれになるが、引き合う力を得て再び出会う。心を動かすということはかように世界を変容させ周囲に影響を及ぼす。その渦の中心にあるのは約束と確信だ。

などと、ごたくを述べようと思えばたくさんできる気がする。が、ごたくを述べないでわからないままにしておくのもまた一興である気がしている。豊穣な映像に身を委ねるだけでも目は快楽を享受している。これは絵が動くことへの感嘆と初々しい驚きを呼び起こし、その愉悦をまざまざと見せつける映画だ。

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『トランスフォーマー』 マイケル・ベイ [映画]

 『アルマゲドン』でも思ったが、マイケル・ベイが描く物語は前半部が圧倒的に面白い。
 『アルマゲドン』は後半のしょぼさを補ってあまりある中盤までのテンポの良さ、映像の素晴らしさ、煽るだけ煽ってしまえ的なあっけらかんとした明るさに満ちていたと思う。後半の隕石に到着した後は、はっきりいってもういらない。地球から娘たちが見守っている中、隕石が宇宙空間で爆発した、みたいなシーンだけで終わらせて良かったのではないか。
 で、『トランスフォーマー』だが、近いことを感じた。(以下、未見の人は注意)


トランスフォーマー スペシャル・コレクターズ・エディション

トランスフォーマー スペシャル・コレクターズ・エディション

  • 出版社/メーカー: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
  • メディア: DVD



 米軍が謎の機械生命体に襲撃され、ハッキングされる。生き残った精鋭部隊はその報告を伝える為に砂漠の街への決死行をする。
 ハッキングの対策をしていたところ、大統領専用機からデータをハッキングされるのに気付く。
 ある冴えない青年が自分の車を欲しがり、ありとあらゆる手立てで金を工面し、成績を上げ、父親と中古車専門店へ買いに行く。謎の黄色い車と出会い、美人のクラスメイトを載せるのにとりあえず成功する。
 これらの平行して進む物語はいよいよテンポ良く、無駄がない。練り込まれている。かっこ良い。スタイリッシュである。お、これはいかにも子供っぽい題材をもとにかなり硬派なつくりにしているのかな?とおもいきや、次第に話は少しずつズレてきて、おちゃらけていく。やっぱりマイケル・ベイだった。
 笑えるほど死亡フラグが立ちまくっている軍の男は最後まで生き残るし、ハッキングに気付いた学生の女がハッキング元を確かめるために機密データを盗んで向かったのはゲームばかりしている黒人の男の家(かなり裕福)だし、青年が誘った美人のクラスメイトは車を分解して組み立てられるほどのマニアだし、父親は犯罪者だし、助けを求めた警察はラリっているし、青年の両親はものわかりよく良識ぶっているし、どこかの家の少女はオートボットを見て妖精だと思い込むし、オプティマス・プライムたちはあんなでかいのにせっかちだしと、あちこちでそういうくすぐりがあってそれは子供も大人も笑える種類のユーモアだったのは間違いない。
 後半、やはり物語はなくなり、戦いと破壊へ突き進むわけだが、ロボット達の戦闘と人間たちの卑小さが鮮やかに対比させられて、見物だった。とはいえ戦闘シーンはいくらか退屈してしまうが、トランスフォームの映像がものすごかったので、『アルマゲドン』後半ほどには退屈しなかった(もっと大雑把でも良かった気はするけど)。途中、日本の戦隊ものの巨大ロボットのシーンかと錯覚した。
 おおむね全体としては充分楽しんだが、思い返すとやはり前半部のワクワク感が一番で、そこと後半部の決着した時の感動がいささか食い違っているような気がした。見たことがないものを見せてくれる期待に満ちていたのに、結末はどこかで見たことがあるようなものだったという感じ。そこに齟齬を感じてしまった。
 それを、普段はやる気のない人がやるときはやるぜ、という風に受け取れれば問題ないのだろうが、私はそういうのは面白くないので。トランスフォーマー2では、ぜひそこんとこを引っくり返してほしいと思う。

『百舌谷さん逆上する』1巻 篠房六郎 [漫画]


百舌谷さん逆上する 1 (1) (アフタヌーンKC)

百舌谷さん逆上する 1 (1) (アフタヌーンKC)

  • 作者: 篠房 六郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2008/06/23
  • メディア: コミック



この漫画もまたツンデレを素材に読者を翻弄する一筋縄ではいかない作者の手によるものだ。
第1話の密度の濃ゆいこと。転校生がやってくる。クラスの担任にツンデレという病気持ちだと紹介される。クラスメイトが騒然と「萌ーえ!萌ーえ!」と囃し立てる。担任が「みんなもよく分かってあげてね」と言う。もうこの時点でズレズレだ。ズレズレなのに、このもどかしさはいつかどこかで感じた苛立ちにそっくりなのだ。
あっちかと思えばこっち、こっちだろうと読めばそれをことごとく裏切る。それがまた小気味良いくらいなのだ。何重にも意味を引っくり返してつかみどころがないと思いきや、裏側の裏側は表側、とでもいわんばかりのツンデレぶり。しちめんどくさい漫画なのである(ほめてます)。
まだ物語が始まったばかりなので、これからに期待なのだが、当初からハイテンションすぎて、既にクライマックスが来ているのではないかという危惧もあり。カバ夫くんの動向が今後のポイントになるはず。てか、それしかない。
これもまたアフタヌーン連載なのだが、こちらもやけに挑戦的な漫画なのだった。んーまてよ、挑戦的というか、あれだ、一部マニアックに受けるしかない漫画なのではないか。長期連載するには薄くするしかない(勧めていません)。
・・・む、無理に面白がってなんかいないんだからね!

ちなみに巻末おまけ漫画とカバーの内側の漫画は、本編よりも受けたかもしれない。たぶん同世代。

『臨死!江古田ちゃん』 瀧波ユカリ [漫画]


臨死!!江古田ちゃん 3 (3) (アフタヌーンKC)

臨死!!江古田ちゃん 3 (3) (アフタヌーンKC)

  • 作者: 瀧波 ユカリ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2008/05/23
  • メディア: コミック



なにをかくそう、私は江古田ちゃんの大ファンである。恵比寿でやったサイン会にあやうく行きそうになったくらい。
全裸なところ、ではなくて、あの冷ややかで鋭いツッコミと、冷徹になりきれない恋心に参ったのであった。
ヌードモデルネタに出てくる自称芸術家気取りの学生たちの放言がツボにはまっている。信者くんの繰り出す「恋は盲目」的発言もなかなか。男たちの「俺はスゲーことするぜ」的発言も・・・
本巻では帰国子女ネタが最高だった。(あのそっけない態度を取りたい気持ちに大共感!)
皆、自分のことが大好きなのだ。そして江古田ちゃんはそれらの「自分大好き」光線を右から左に流すことなく、全てはね返すのだ(帰国子女の場合はそっけなく流すことこそが、真っ向からはね返すことを意味している)。
光線を発した相手に、そして光線を発しているかもしれない自分自身にも。だから江古田ちゃんにはもはや何も隠すものがない。
誰もいない自室で全裸で過ごす彼女は、読者にだけは体と心を開放しているのだとも考えられる。
しかし、と私は思う。はたして江古田ちゃんは読者にすべてを開放しているのか?結局、露出が好きな女の子にすぎないのか?
いやいや、まてまて・・・トビラのページで必ずアフタヌーン読者への挑発をくりだす江古田ちゃんは、まさに読者を挑発しているのだ。全裸だし、私生活を暴露しているにもかかわらず、彼女は「それで私をわかったつもり?本当にそう思っているの?」といわんばかりに微笑むのだ。
そもそも連載をアフタヌーンでしていることが挑戦的ですらある。この挑発に一番乗せられやすい読者がいそうじゃないですか!(え、偏見?私も一読者なんだが・・・)これがモーニングだと面白みに欠けるし、KISSとかでもなにかズレてしまう。
アフタヌーン読者は冒頭の挑発4コマで江古田ちゃんに調教されつつ、最後の自虐4コマには萌えを見出しているに相違ない。
素朴な疑問だが、男性読者と女性読者のどちらが多いのだろう?私は男性読者に一票投じたい。


よしながふみ あのひととここだけのおしゃべり [本]


よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

  • 作者: よしなが ふみ
  • 出版社/メーカー: 太田出版
  • 発売日: 2007/10/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



つねづね感じているのですが、対談というのは対面する二人が手探りで話を転がしていって、面白くなってきた頃に終わってしまうものが多いのです。私はその終わった後の話がもっと聞きたいのです。ひどいものになると、ようやく問題が浮き彫りになった瞬間に終了するものもあります。お前らお互いに挨拶を交わして終わりかーっ!

さて、漫画家のよしながふみさんが同業者をメインに対談したのをまとめたものがこの「あのひととここだけのおしゃべり」です。この対談は濃い。読みごたえがありました。いやあ、こういう対談が読みたかったのです。あうんの呼吸で、丁々発止のやりとり。膨大な注がついていますが、ほとんどが会話に出てくる漫画家の説明なので、漫画好きならスラスラ読めるはず。

私は、よしながふみさんの漫画をくまなく読んでいるというわけではありませんが、大好きな漫画家さんです。乗りに乗っているという意味では今一番の作家さんではないでしょうか(いやまだまだ今以上に期待し続けますよ!)。
完結した『フラワー・オブ・ライフ』は素晴らしかったです。連載中の『きのう何食べた?』も『大奥』からも目が離せません。『愛がなくても喰ってゆけます。』も好き。もちろん名作『西洋骨董洋菓子店』もはずせません。(アニメ化にも期待)

冒頭のやまだないと氏、福田里香氏との鼎談では近年まれに見るくらいの少女漫画への熱い想いが語られています。私は居酒屋で隣の席でこんな話が繰り広げられていて、それを盗み聞きしているような気分になりました。そうそう、そうなんだよね!と心の中でうなずいてるの。あまりにも私が辿っていった少女漫画の遍歴そのままだったので、感動すら覚えました。最終的には24年組に行き着くんだよね!やっぱり。
三原順の話題だけは私も声を揃えて会話に加わりたくなりました。みんな同じことを思うんだね!『はみだしっ子』もいいけど『ロングアゴー』と『ムーンライティング』と『SONS』を描いてくれてありがとう!三原先生。という。
『はみだしっ子』子供の視点で描かれた最初の数話はやっぱり少ししんどかった部分もありました。中盤から後半にかけては「どうしてボクを見てくれないの?愛してくれないの?」という思いから解き放たれたと思います。
そして、さらなる高みに到達し円熟さをもって描かれた『SONS』を私はこよなく愛するものです。

くらもちふさこが職人だという話も同感。芸術家肌に行かない、というのはまったくその通りだと思います。なんでそんなことがわかるんだろう、この人たちは。くらもちふさこがすごいのは、(語弊を恐れずいえば)突出したすごい漫画を描くからではなく、にもかかわらず現役先頭を平然と走る普通さの為だからなのですよね!

大島弓子を男が誤って読み解いているのでは、という話も目からウロコでした。私は大島弓子もこよなく愛する人間ですが、面白いと思う気持ちは間違った所から来ているのでしょうか。少しひっかかったのは、ここで避難されている男性像がけっこうステレオタイプな気がしたのです。他の対談で出てくる男性は離婚漫画を描けない話とか。それは事実だったのでしょうけど、描ける男もいると思うんですよね。特に若手で。今度は男性漫画家とも対談して下さい(希望)。

私はBLには詳しくない人間ですが、BLをとりまく状況やBLの自由さの話には興味を持ちました。何作か読んでみようかな、という気持ちになりました。装丁や本棚の敷居は高いんですけどね、実際。でも乗り越えてみましょうか。

漫画に対する創作姿勢には打たれるものがあります。そして実際に漫画が面白いのです。さらっと描いてある風なのに、よく読むとそのバックボーンには一筋縄ではいかないものに貫かれているのです。
最近とみに思うことですが、あらゆる創作は過去と未来に繋がっているものであり、その時々で達成されるものもあれば、長いスパンで実現されるものもあります。伝統を乗り越えることで現れる現実もあれば、伝統を踏まえることで現実をのりこえることだってあるのです。
よしなが氏のいう、贅沢なものを読ませていただいた恩返しの代わりに、これから先の人たちに伝えていきたいという気持ちは、心の底から出たものだと思います。創作を志す者は肝に命じるべきではないでしょうか。
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『あれからどのくらい』 友部正人 [音楽]

あれからどのくらい

あれからどのくらい

  • アーティスト: 友部正人
  • 出版社/メーカー: インディペンデントレーベル
  • 発売日: 2003/09/01
  • メディア: CD

・・・ほんとうにびっくりして、身を委ねて、そして気持ち良かったです。

友部さんは、もうすぐデビュー35年になるところですが、この『あれからどのくらい』というライブ録音は30周年の時の記念盤です。
鎌倉芸術館で行った記念コンサート(5時間もあったという・・・行きたかった)から厳選された26曲が収められています。
いやもう音が素晴らしいです。豊かな音のざわめきというか、とにかくバックの音楽が友部さんの歌声をどっしり楽しげに受け止めているのです。
とくに私が好きなのはムーンライダーズの武川雅寛さんのヴァイオリンとトランペットとコーラス。しなやかで、明快で朗らか。そしてなにより艶っぽい。Mr.サポートマンです(意味不明)。

「鎌倉に向かう靴」といった最新曲から「一本道」といった代表曲まで縦横無尽に歌い尽くします。
あ、これはこの前のアルバムに入っていた歌だ、と思うそばから過去の名曲がはじまり、友部正人さんの長いキャリアのその深淵を覗き込むような気分になるのがまたたまりません。通して聴くとどれも友部さんの匂いみたいなものが感じられます。たくさんの歌が友部さんの中に大切にしまわれていて、それらを吟味してからそっと取り出しているように思われます。
その歌が仲間たちのバッキングとからみあい、水を得た魚のようにいきいきと輝き泳ぎはじめる瞬間。

オリジナルはオリジナルでよいのですが、ライブ盤ならではの緊張感がありつつも、なごやかな空気がそこには流れています。不思議な雰囲気の音楽。すでに知っている歌ばかりで2枚組だからなあ・・・とちょっとだけ敬遠していたファンはもったいないことをしていますよ!(それは私のこと)

もしも何も知らない人が初めてこれを聴いたらどんな顔をするだろう?と考えて、いや、きっと声か歌詞か音楽かのいずれかに何かしら衝撃をうけるに違いないと踏んでいる私なのでした。
そういうふうに開かれています。

そうそう、3月に新作アルバム『歯車とスモークドサーモン』が出るそうです!『LIVE! no media 2006』のDVDも2月だそう。


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『薔薇のイコノロジー』 若桑みどり [美術]


『マニエリスム芸術論』を読んだ数カ月後に若桑みどりさんの訃報に接し驚きました。
あわてて『薔薇のイコノロジー』を読み、あらためて氏の聡明さと洞察の深さに感動したのでした。
私が初めて若桑みどりさんの講義を聴講したのは今からもう12、3年くらい前のことです。だいぶ忘れてしまいましたが、20世紀の芸術を考える、というようなもので、例えば北野武の『ソナチネ』を評して「彼がこのような素晴らしい映画を撮ったのは本当に驚きです」というような話をしたのがとても印象に残っています。たしか三宅一生がプリーツをつくる現場の映像などもそこで見たと思います。
私が初めて尊敬した大学の教授でもあります。舌鋒がとにかく鋭く、90分もあの調子で語られると講義終了後にわけもなく何かやらねば、という高揚感を感じてしまうのです。研究者としてはもちろんのこと、教育者としての使命感は並々ならぬものがそこにはありました。まず自分がとことん知ること、考えること、議論すること。その姿勢を見せること。そして、その成果と課題を学生に教え、伝えること。口調は常に熱かったのです。
絵画の見方なぞまるで会得していない田舎の小坊主だった私が、それを氏によって初めて啓蒙されたのは幸運なことでした。思えば、氏から教わったことはつまるところ人間のこと、人間のなしてきた事や今なされている事を我々は考えなければならないということだったように思います。人間のすることには全て意味があるし、無意味だと思ってやり過ごしているととんでもない目にあう。それは過去の歴史が証明している、と。そんなことを無知で無気力な若者に全力で伝えていたように今になって感じるのです。

薔薇のイコノロジー

薔薇のイコノロジー

  • 作者: 若桑 みどり
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2003/04
  • メディア: 単行本


さて、氏の代表作に必ずあげられるこの『薔薇のイコノロジー』ですが、基本的には西洋絵画における花の意匠について多面的に考察している論集です。パルミジャニーノ、ボッティチェルリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラッファエルロ、ブロンズィーノ、ヤン・ブリューゲル、スルバラン、カラヴァッジォ、ウィリアム・モリスらが主に取り上げられています。
絵に描かれた薔薇の花はただの飾りではなく、古くから連綿と続いている象徴や歴史的な意味があり、描き手はそれをはっきり意識しながら絵を描いたことが浮き彫りにされます。ここでは氏の博識が遺憾なく発揮されています。しかし話はそれだけに留まりません。その絵の中の花の色や位置や表現のされ方から、先行作品への参照や描かれた当時の時代背景や描き手の思想を次々と読み解いていくのです。その手腕たるや、読者は魔法を目の当たりにしているかのように呆然とするほかありません。
花から庭園の描かれ方に飛んだかと思うと、今度はグロテスク様式の話に行ったり聖堂の天井の話になったり、日本文化やモダンデザインまで言及したり、とてんこ盛りの内容です。
特にグロテスク様式の話は今の自分の興味に近い話がされていて面白かったです。ルネサンスで完成されたグロテスク様式は、現在日本で使用されているエログロのようなイメージとはやや異なるようです。もともとは植物文様の中に人間や獣の姿を混ぜわらせたものをグロテスクといったようです。そしてそれは人間中心主義ではなく、自然と人間とをまったく対等に扱う思想が工芸の中に結実したあかしであると氏は指摘します。バフチーンを引用して「グロテスクにあっては境界線は大胆に犯されている」=既存の体系からの「自由」だという思想こそがそこに隠されていることに焦点を当てますが、「根元はギリシャの宇宙論にあり、具体的にはその四元素論にあったと私は考える」と洞察します。そしてギリシャ神話の変身こそがものの本性であったというのです。この思想が息を吹き返したことこそ16世紀、ルネサンスだったというのです。(さらにシュルレアリスムの系譜まで言及します。)
また白眉の章ともいえる「花と髑髏〜静物画のシンボリズム」を読んでいた時には思わず目頭が熱くなりました。静物画に世界を見、季節を見、聖母を見、生命を見るまなざし。このまなざしを世界は失ってしまったのだ・・・と実感したせいです。
あとがきの中で、パフォーマンスという芸術にからめて「私はきわめて多くの芸術行為が「残らない」ものであることを指摘したかった。美術館に残存しているわずかな作品は、人類の豊穣な創造力の悠久の流れから漂着した漂着物に過ぎない」と語っています。この潔さ。こうした言葉にはそうそう触れられるものではありません。

新版へのあとがきの中で、氏が強い影響下にあったというアビ・ワールブルグの2つの名言を書いていました。
それを引用して終わりにしたいと思います。

「細部に神が住む」

「あらゆるものは関連しあっている」

まさに若桑みどり氏が実践したとおりです。


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北京的夏 ファンキー末吉/松本剛 [漫画]

北京的夏 (講談社BOX)

北京的夏 (講談社BOX)

  • 作者: 松本 剛, ファンキー 末吉
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/12/04
  • メディア: 単行本

講談社BOXから松本剛全作品復刊プロジェクト第3弾として『北京的夏』が登場しました。
これは原作が爆風スランプのドラマー、ファンキー末吉さんで、漫画を描いたのが松本剛さんです。
もとの単行本は1993年に刊行されていました。私が初めて読んだ松本漫画でもあります。(あれは96年くらいだったでしょうか。)

主人公のトオルは人気バンドのドラマーでありバンドの曲づくりの中心人物。バンドとして商業的成功を手に入れ、次々と仕事が舞い込み、メンバー主役の映画まで決定するほどの破竹の勢い。
そんな中、クライアントのためにウケる曲づくりを強いられ、本当に作りたい音楽を見失っているトオルは、作曲できないほどのスランプに陥っているのでした。そこでひょんなことから雲隠れさせられることになり、中国は北京の地に立ちます。
そこで出会った本物のロックにトオルの魂は震えます。自分が失ったものを彼らは胸に持っている、ここで何かをやらなくては!と動き始めます・・・

テンポ良く話全体が進むのは松本剛さんの持ち味というよりは、原作に基づくしっかりした構成があってのものだと思います。しかし、冒頭で朝もやの中、捨てられたテレビを仇のようにスティックで打ち続ける印象的な場面からはじまり、前夜の飲んだくれシーンを挟んだ後、浮浪者のおじさんがおどおどと話しかけてきて「俺・・・曲が書けなくなっちまったんだよ」と告白するくだりなどはとても松本漫画らしいと思います。
ファンキー末吉さんの原作をどこまで忠実に描き、どこまでが松本オリジナルなのかどうかはわかりませんが、随所にこの松本節らしき部分があります。ひとついえるのは幸せな原作と漫画なんだなーということ。どちらが強く、どちらが従属しているというわけでもなく、オイシイところを出し合っているように思えます。

この漫画では、音の出ない漫画からいかに音を出すかという難題があります。良い音、悪い音、爆音、微小な音、聞こえる音、聞こえない音を描き分ける表現の、控え目だけど豊かな情感というのでしょうか、その多彩さにも要注目です。
調子づいていた頃のトオルがジャズクラブに飛び入りし、邪魔な音を出す場面。そして再び同じジャズクラブで叩いたドラムの音。いずれも音を表現するものは描かれていません。しかし読者はその音の違いがわかります。
なめてかかった緑たちのバンドの音を聞いて戦慄する場面。驚愕したトオルの表情にマネージャーらの台詞が胸中に浮かんでたたみかけられていきます。ここにも黒豹の音がたしかに流れています。
一転して、トオルが大学でドラムを叩きまくるシーンでは音が形となって目に映ります。トオルの「叩きたい」という気持ちを全開にしたもの。何も考えずに無心で叩いている音はむしろこういう描き方が似合っているのかもしれません。
そして6月4日のライブ。中国にロックが鳴り響く場面。それから最後のSO-LONGのライブの場面。(あまり書くと読む楽しみがなくなるのでしませんが)そこで鳴り響く音は、もちろん音そのものではないのですが、読者の私の胸に鮮やかに浮かび上がってきますし、その音の微妙な違いすらわかるような気がしてくるのです。聴こえないはずのあのバンドの音が「聴こえないけど、聴こえる」のです。(「教科書のタイムマシン」みたいですね。きっと共通したものがあると思います。)

松本剛さんの漫画では、楽器が出す音に限らず、様々な音に敏感です。私は特に沈黙の描き方が好きなんです。ホテルの一室の静かな場面や、頭の中が真っ白になった時の沈黙。その時は複雑な感情が底辺に流れていることが多いのですが、対照的に周囲は静寂に包まれているのです。
例えば、トオルが再び曲を作りたいと思って、旋律をつかみ取ろうとする夜。電気ポットが小さく「ヒュウ」と鳴っています。手からこぼれたペンが「ポト」「コロコロ」と転がります。ため息。トオルの背中を下からあおぎ見る視点で描かれます。
ただ単に好きなシーンなだけですけどね。

いろいろごちゃごちゃ書きましたが、「ひっこめ!」といわれる前に終わりにしたいと思います(笑)

とにかく、この『北京的夏』が10年以上たって復刊したのは嬉しいことです。読んだことのない方はぜひ手に取って読んでみてください。
あとがきでファンキー末吉さんは、17年後の続編を書いていると云い、できれば松本さんと再びコンビを・・・ということを書いていました。ぜひ実現してほしいです!


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植村直己『極北に駆ける』『北極圏一万二千キロ』『北極点グリーンランド単独行』 [本]

植村直己の北極圏3部作とでもいった趣の3冊。

極北に駆ける

極北に駆ける

  • 作者: 植村 直己
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1977/01
  • メディア: 文庫

『極北に駆ける』では、単身グリーンランドのエスキモー(イヌイトまたはカラーリット)達の生活に飛び込み、犬橇の技術を修得するまでを描く。人々に溶け込むために、荷物運びを手伝ったり、子供たちの注目を集めようとしたりと奮闘するのが(本人は必死だが)微笑ましい。
日本とはまるで違う人々の食生活や、きりなく家に出入りする隣人たちに多少辟易としながらも、植村はグリーンランドに生きる。
老夫婦の養子となり心も身体も郷に入ったころ、本格的に犬橇の訓練を開始する。
鞭の使用法に苦戦させられつつ短距離の走行を繰り返し、ついには仕上げの三千キロ走破を達成する。
その頃にはすでに(はじめは呑み込めなかった)アザラシの生肉の味にも舌鼓をうち、猟にも慣れ、言葉も堪能になっている。
都市生活をしている人間は彼らエスキモーを原始的な人々だと思いがちだが、彼らは彼らで犬橇も乗りこなせず、アザラシ猟も出来ない仲間を都市生活者のようだと馬鹿にする。金に執着せず、毛皮の売買で手にした大金もあっという間に浪費してしまう。陽気で逞しくて誇りを持つ人々。
そんな彼らに愛情を感じ、彼らのようになりたいと思い、数カ月の努力で一人前と認められた植村直己はその精神と技術を持って、エスキモーからも「やめたほうがいい」と止められるほどの冒険に旅立つことになる。

北極圏一万二千キロ (1979年)

北極圏一万二千キロ (1979年)

  • 作者: 植村 直己
  • 出版社/メーカー: 文芸春秋
  • 発売日: 1979/07
  • メディア: -


『北極圏一万二千キロ』は、グリーンランド沿岸から凍てつく北極圏をひた走りカナダからアラスカまでをたった一人で犬橇に乗った冒険行の記録である。エスキモーでさえもクレージーだという行程。
地形や気候もさることながら、犬たちとのコミュニケーションに悩まされる植村。
メス犬をとりあって争い、血まみれの死闘をくりひろげる犬たちと、それどころではない未知の冒険に不安を感じる彼の内面の葛藤が真っ白い氷原を疾走する。
いや、疾走と表現するのは正しくない。氷山あり、渓谷あり、薄氷あり、補給物資なし、という最悪の局面がつぎつぎと襲ってくる。植村の苦悩と奮闘をよそに犬は橇牽きをさぼるし、喧嘩するし、怪我をする。
大事な道具や毛皮を彼はよく無くす。これは、たんに不注意ということではないだろう。零下何十度という世界で冷静な判断力をくだし、鞭をふるう体力を維持し、自分の命を守るのに精一杯な状況では、やむを得ないものだろう。立っているだけでも体力を消耗する世界。生きようと努力をしなければどんどん死んでいく世界。
カナダで越夏(氷が溶けるから)し、アラスカまで勢いで到達する。犬たちは次々と倒れていく。植村の愛惜の情が心を打つ。エスキモーと彼の一番の違いは犬に対する同志愛の深さかもしれない。エスキモー達は弱った犬をいとも簡単に食糧にする。これを残酷で野蛮というのは間違っている。極寒の土地で生きるための智慧なのだ。しかし、植村はそれが出来ない。冒険をともにした犬を呑み込むことが出来ない。とはいえ、それをセンチメンタルと誰がいえようか。善意で出された椀を目の前にした植村の気持ちは本当のものだと思う。この気持ちを持つからこそ、植村は冒険に出るのだ。

北極点グリーンランド単独行 (1978年)

北極点グリーンランド単独行 (1978年)

  • 作者: 植村 直己
  • 出版社/メーカー: 文芸春秋
  • 発売日: 1978/10
  • メディア: -


『北極点グリーンランド単独行』は、前回の冒険から2年後。再び北極圏に舞い戻った植村が、今度は地球の頂点ともいえる北極点への犬橇単独行に挑戦する。
またもや犬たちの行動に悩まされる。メス犬は妊娠・出産するわ、喧嘩で走れなくなった犬が続出するわ、白熊に襲われるわ、もう大変なことになっている。
しかも凍結している氷原も生々しくブキミに動く。ルートを見極めないと命に関わる。
それでも、北極点を目指す冒険に胸が高鳴る。単独行という矜持を胸に、彼はマイナス50度の世界をゆく。これまでも、そしてこれからも選ばれた人間しか体験不可能な旅をする。
ついに極点に達した彼は、休む間もなくグリーンランドにとって返し、いよいよ前人未到のグリーンランド縦断の冒険を開始する。南極大陸単独犬橇横断という夢をもって、植村直己は果敢に挑戦する。
ヒドン・クレバスに消えた犬。
やせ細った白熊。
何千キロも羽ばたいて氷河に落ちた小鳥。
植村は「私にもいつか、このような不測の死が訪れるのだろうか」と述懐する。

犬達はあいかわらずだが、次第に植村を主人と感じ、目でコミュニケートができるほどに親密になる。
これは余談だが、このグリーンランド行は糞の旅でもあった。
犬達は走行中に糞をする。走りながら出来る犬と出来ない犬がいるという。止まっている時にすればいいのに、と彼も嘆くが、犬達は平然と糞まみれなのであった。
また空腹で食糧がつきた時は、犬は自分の糞を食べる。強い犬は弱い犬の糞を横取りして食べる。植村も自分の糞を弱った犬やお気に入りのリーダー犬にこっそりあげたりする。

グリーンランド縦断の冒険は補給なしには出来ないものだった。これを真の単独行ではないという人は冒険の意味を無謀とはき違えている。本人も書いているが、技術の進歩で単独行の意義が薄れるかといえば、まったくそうではないのだ。疑問を持つ人は本書を読めばわかる。読んでもわからなければ、あとは自分でやってみることだ。


追記
以前、私のヒーロー像とはずれていたという話を書いたが、この三冊のほかに、

植村直己記念館

植村直己記念館

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1991/02
  • メディア: 大型本

や、

植村直己 (KAWADE夢ムック)

植村直己 (KAWADE夢ムック)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2004/09/25
  • メディア: 単行本

などを読んで、今度こそあの「植村直己」が私のヒーローに重なりました。


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