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『虐殺器官』伊藤計劃 [小説]

円城塔さんの本と一緒に買おうと思ったら、これしかなかったので、とりあえずこちらだけ。こちらはまず芥川賞候補にはならないでしょう、いろんな意味で。
さてさて。著者は私とほぼ同年代。読んでいて思考傾向が似ていると感じたのはそのせいでしょうか(全部とはいいませぬ)。
また細かい部分で登場する文学者、画家、映画監督などがいちいち心の琴線に響きます。カフカ、ボッシュ、テリー・ギリアム・・・。モンティ・パイソンネタは面白かったけど(まさかの時のスペイン宗教裁判とかシリーウォークのたたみかけはうけた)、あんな風に帯に書くほどではなかったです。
加えて言語学(チョムスキー)、ナチスやスターリニズムが駆使した民衆への広報活動(プロパガンダ)、個体認証(社会にとって個人を確定することとは何なのか)、などなど自分がこれまで興味を持って接してきた知識を総動員させられ、対峙させられた読書となりました。
私に抜けていたのは軍事関係、国際情勢、歴史認識でした。まあ、日々ニュースを見ているくらいの知識があれば難しい話ではありません。アメリカの現状、社会の閉塞状態、戦争と平和についても考察があります。
詳細にわたる現代への認識があって、そのうえでもう一歩進んだ社会を地続きにつくりあげた労作だと思います。

虐殺器官

虐殺器官

  • 作者: 伊藤 計劃
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2007/06
  • メディア: 単行本


(以下、一部ねたばれしています注意)

アメリカの特殊工作隊員として老若男女を問わず殺戮の限りを尽くしてきた「ぼく」(シェパード)は、母親の死をめぐる一連の選択によって「生と死」についてそれまでの認識がぐらつき始めます。そんな折、作戦の中でターゲットとして名前はあがるものの、何度も取り逃がすジョン・ポールなる人物が、紛争国での虐殺に深く関わっていることをつきとめるのでした。
ジョン・ポールは自ら手を下すことはしません。人間が本質的・遺伝的に持つ「虐殺へと志向させる」言語の文法を垂れ流すだけ。
まさかそんな漫画みたいな、と思う方でも、現在の日本でも毎日垂れ流されるテレビ報道や新聞の見出し等に「何かへと促す感触」や「ある倫理観を前提とした断言」や「読者の日常とはかけ離れた大仰な物言い」などを感じたことがあるかと思います。あそこに感じられる嫌悪感すら操作されているのでは、と思わされる瞬間もあります。一番わかりやすいのは戦時中のプロパガンダ研究でしょうか。その効果が本当かどうかはわかりませんが、こういう言辞が弄される時点で時勢が戻せないということはあるかもしれません。もっといえばその効果は、われわれ民衆とは全く関係ないところで始まり、目に触れた時点ですでに決定済み事項となっているために、まるで影響をおよぼすことがないといっても過言ではないと思います。だから戦時中に「お上はああいっていたが、庶民感覚はそうじゃなかった」などというのは本当のことだと思いますが、だからといって庶民が社会状況を変える可能性があることとイコールではないのです。
だから物語中、その虐殺文法はその国の支配層に影響を及ぼします。しかも彼らはなぜ自分達がそんなことをしでかしたのかまったく無自覚です。(それって、サブリミナル効果と一緒?あの有名な映画館のサブリミナル効果は嘘っぱちに近いらしいですが、理屈は同じかも)
「ぼく」はジョン・ポールを追う過程で彼の愛人ルツィアと出逢い、対話を通じて(実際は彼女のまなざしに代表される外見、雰囲気、たたずまいに多くを負っているかもしれませんが)過去の自分の仕事つまり正義の名の下に行った殺戮、多くの人間を救うために多少の犠牲を払うことはやむを得ないという考えにもとづいた皆殺しについて悔悟の念に襲われます。そしてこの殺戮に付随していた事前のカウンセリングや医療的な処置について疑問を抱き始めるのです。すなわち、殺したことに対する罪悪感がゼロにさせられていることはその責任を負わないということであった、と。だからこそ徹底した特殊工作員として暗殺に携わることができたし、たまたま作戦上に現れただけの罪のない人々を始末してもアメリカという国がその責任を肩代わりしてくれると思っていたのです。
しかし、ジョンはそのアメリカに守られ、またアメリカを守ることで自分の大切なものをこれ以上失わないように誓った男でありました。「ぼく」もまたアメリカに守られてはいたが、アメリカによって大切なものを奪われてしまったのです。自分を赦してくれるかもしれない存在、母親あるいはルツィアを。
その時「ぼく」は死んだジョンとまったく同じことを、まったく違う場所で行うことで、不平等だった責任の所在を反転させるのです。その結末は意外性こそありませんが、ずっしり重いものです。これが日本人によって書かれたということも含めて。

最後にひとこと。
「ぼく」は30才。20代のころからこの過酷な任務(しかも選抜)を続けており、大きな失敗もしてなさそうなのに、独白はどこか軍人ぽくない。あえてそれを選択しているのかもしれないが、この性格ではもっと早い時期に精神が弱ってしまうのではないか、とふと感じました。もちろんマチズモな軍人とは一線を画しているのは書いてあるし、父の不在にまつわるエピソードからすると、この人格形成はありかもしれませんが。そして母の死がやはりそこに影を落としているのでしょう(こうやって考えると納得するんだけど、読んでいるとたまに不思議に感じる箇所もある)。

もうひとこと。
この小説の白眉は第4章の列車での戦闘でした。ここ、大好きだなあ。容赦のなさが。

ところで。
モンティ・パイソンのフライングサーカスは今みると古臭いスケッチが多いですが、その中でも残虐なネタはいまだその力を失っていません。またはラトルズに代表される諧謔的な笑いと、そこから漂うスノッブ臭はいまだ健在です。ラトルズの音楽は本家本元がその輝きを保っているのと同様に変わらず光っています。

ちなみに。
テリー・ギリアムが自分のオフィスで使うメモ用紙は、ボッシュの絵が入っているものだそうです。


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