田舎幻想をぶっとばせ 『リトル・フォレスト』五十嵐大介 [漫画]
田舎幻想というものがあります。
田舎に暮らそう、そこには人間がもともと持っていたはずの生き方があるのだから。
日本人が脈々と伝えて来た昔ながらの生活の智慧があり、それを取り戻すのだ、と。
こういう田舎幻想が、私はあまり好きではありません。
よく、作家とか画家とか音楽家とか陶芸家とか市民運動家とかが島に住んだり、自給自足生活を始めたりするのを聞いたりします。そうすることの必然やなりゆきや事情があるのは十分承知しているつもりです。それに、そういう生活が楽しそうだと思っていることも白状します。
それにもかかわらず、どこかで嘘臭さを感じているのです。
自然に寄り添って生きるのが本当だ、とか都市生活は不毛だとか、そういう蔑視を感じるせいでしょうか。都市生活者を見下した目線があるように思われて仕方がないのです。これはひがみかもしれませんが。
けれど、だから私は田舎幻想というものが好きではありません。
のっけから変な話で恐縮でした。
さて、五十嵐大介の『リトル・フォレスト』です。
これは、街から逃げるように「小森」へ帰って来た一人の少女の田舎暮しの話です。暮らしといっても、ほとんどが「食べる為に収穫し、また食べる」場面を描いています。それがまたいちいち美味しそう(じゃないものもごくたまにあるけど)なのです。
季節を通して、少女=いち子は自活しているように見えるけれども、実は小森に根付いて生きることを迷っています。それを村の仲間にずばり言い当てられたりもして、口ごもったり。結局、流れやすい所に流れただけではないのか。そんな思いを抱きながら、一年また一年を過ごしていく。
いち子にとって小森での暮らしは厳しいものでもあり、楽しいものでもあります。一所懸命に生きるにはもってこいの場所なのです。しかしある時「その場その場を一所懸命でとりつくろって逃げているだけなのでは?」と問われ、彼女の心はまっぷたつになります。もちろんいち子自身もうすうす感付いていたことなのですが。
そして逃げて来たことを真正面から見つめようと決心するのです。
物語の最後はみなさんに読んで頂くことにします。いち子の着地点が最善だったかどうか、私にはわかりません。
しかし、それはいち子が決めたこと。その一点においては何もいうことはありません。人の生き方に疑いや否を唱えることは簡単に出来ますが、その資格は誰にもないはずです。
誤解の無いように一応云っておきますが、この物語の終わり方はとても清々しいものでした。
五十嵐氏の漫画はデビュー時から大好きでずっと読んでいますが、嘘を描くということがまずない漫画家のひとりです。これは何かの幻想にとらわれることが無いという意味です。
どこに生きていても、人間らしく生きることは可能だし、当たり前だと思うのです。
田舎幻想をぶっとばせ!
『リトル・フォレスト』はこの幻想を鮮やかにぶっとばしてくれます。
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