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『下りの船』 佐藤哲也 [小説]


下りの船 (想像力の文学)

下りの船 (想像力の文学)

  • 作者: 佐藤哲也
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2009/07/09
  • メディア: 単行本


「現状のジャンル分けに収まりきらない豊穣なイメージを展開する作家のレーベル」だという「想像力の文学」の第3回配本。
これはおそらく、ある地点まで極めてしまった恐るべき本に違いない。
無からひとつの世界を立ち上げ、さらにその世界を巨大な視点から微細な視点まで官能的なまでにダイナミックに移動させる手つきの鮮やかさ。しかもその視点といったら、あたかもこの世の人ならざる者が「観察」しているとしか思えないものなのだ。いうなれば異世界の者がその世界を観察し、描写し、報告しているかのようなーーもっと云えば、この世界に属さないものが便宜上この世界の言語を用いて世界の様相を語っているような、奇妙な感覚がここにはある。この世界の言葉を用いてはいるが、決してこの世界の内部からは描き得ない、どこかで決定的に拒絶された透明な壁があるような文章なのである。
冒頭の村から別世界へ辿り着くまでの圧倒的な俯瞰は、まるで川の源流で始まりの一滴から小さなせせらぎが集まって流れをなし、やがて大河となって下流へそそぎこむひとつの動きである。これを精緻で透徹された目で描き出す。この冒頭部はきわめて映像的で、そのひとつひとつの場面の展開は有機的につながっており、その展開がまるで容赦のないものであってこの上なく素晴らしく、正直いって読んでいて気持ちいい。
また陳腐な例だが、それは蟻の生態を観察している子供の視点のようである。ひとつのまとまりとしての蟻の群れを観察している。無数の個体の中からふと目に付いたものがある。それはとりたてて個性があるわけでも他とまるっきり違っているわけでもないのに、観察者にとっては妙に気になる個体であったのだろう。ついついその個体を目で追ってしまう。アヴはそういう風に発見される。目の隅で気にとめながらも全体の動きを当面は追っていく。そんな風でもある。
とはいえ俯瞰的視点ばかりでなく、もちろんひとつひとつの詳細な単位での動きも(相変わらず)丁寧に捉える。その丁寧さはいわば反復される何パターンかの動きを一つの要素あるいは概念として言語化するために必要な作業なのであり、それらの淡々とした積み重ねが大きなうねりを作り出す。
これに限らず、佐藤氏の本は往々にしてこのうねりにたっぷりと(ときにはいやというほど)身を委ねるのが楽しい。その代わり、その中身が意味するものは(その内部にいる者たちにとっては、だが)絶望的なまでに重苦しく、楽観を許さない。これは例えば子供が蟻の巣に水を流して遊ぶような意図的な苦難などではない。これは作者が作る物語という行為からは限りなく遠いものである。観察ありき、なのである。人々はわけもわからずある状況へ投げ込まれ、わけもわからず生きなければならない。おのれのはかり知れない状況にいつのまにやら入り込み、それが不本意なことであるのもはっきりとはわからずにいる。ただ、いるだけ。そしてその状況を知り、状況に対置したおのれを確立しようともがくが、それがその状況にとっては無関心であるために、何の役にも立たないか、最悪のそして当然の結果を招くことにもなる。そこには観察者の悲しみや虚しさなども垣間見えないこともないが、つきつめるとそれは、たまたま目にとまった個体に対する愛惜以上の何ものでもない。
この本は当たり前だが作り物である。しかし物語などでは全然ない。無から立ち上げた世界を観察しているだけである。否、観察することによって世界が立ち上がってくるという希有な事態が、読むことと同時に生み出されるのだ。もちろん観察しつつ立ち上がる世界、というのを作るのにはいかほどの胆力が要るものなのか、それこそ想像を絶する。その観察される世界は観察しているだけでは物語たりえないし、そこに物語を生み出そうとすれば必然的に嘘になる。そう、これは物語ではなく生起しつつある事態なのだ。事態に意味を付与しながら書くのは観察ではない。そしてその観察を読むこともまた、眼前に立ち上がってくる世界をーー事態をただ見ることしかできない。意味を付与しながら読むことにはあまり意味がないように思う。意味は溢れかえっており、つかみどころがない。蟻の内面がわからなくても蟻の生態をとらえることはできる。蟻はこういう場面でこのような行動をする。以上。蟻の気持ちはあってもなくてもかまわないが、結果このような行動しかしない。以上。登場人物の内面のようなものが描かれることもあるが、それは限りなく行動の把握と差異がない。だからこの本の記述が世界の内部からは描き得ないことは、初めから承知の上なのだ。
それにしても、このまったく感傷さのかけらもない事態に対して、私はなぜこんなに心動かされるのだろうか。読んだことのないもの、あるいは読んでみたいと思っていたが何を読みたいのかうまく言語化できなかったものを読めたこと。それ以上に本を読む理由が果たしてあるだろうか。
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