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『Dr.パルナサスの鏡』 テリー・ギリアム [映画]

バンデットQ、ブラジル、バロン、フィッシャーキング、12モンキーズ、ラスベガスをやっつけろ、ローズ・イン・タイドランド。
牽強付会なのは承知の上で、どれにも共通しているのは、自分の見ている世界が誰かの夢かもしれないということ、あるいは誰かの夢の中に自分が生きているかもしれない、という存在の危機感というやつなのかもしれない。その挟間に何かの拍子ではまりこんでしまった人々が右往左往する。気付かなければ疑問を抱かずに生きていけたのに、疑問を抱いたばっかりに不幸へと転落する。結局どちらにも帰属できずにとりのこされる。だから、どの映画も終盤にむかって股の辺りがぞわぞわするような不安をあおる。かと思うと、そんな不安を笑い飛ばすような唐突なギャグが「ごきげんよう」とばかりにどーんと降りかかる。
この新作もまた、ある意味こうした存在や世界への感傷とナンセンスなギャグと不条理を混ぜ合わせたものといえば、そうかもしれない。
しかしこの映画は不幸である。主演男優の不慮の死が、という意味ではない。むしろヒース・レジャーの死はこの映画にとって酷い宣伝以上の効果はなかった。これは不幸である。さらに代役の俳優たちがそろって人気者だったということ、これらも酷い宣伝以上の効果はない。一本の映画にとって中身以外の部分で喧伝されることは、それがどんな内容のことであれ不幸だといわざるを得ない。たとえば「映像の魔術」とか「想像力の復権」とか、あまり頭を使わずに使用されるこうした文句。おそらくこれまでギリアムの映画を一度も見たことのない観客がこの文句から期待し想像するものと、実際の映像はこれっぽっちも重ならないだろう。そして「想像力の復権」は押し付けがましく感じられることだろう。耳に聞こえが良いこうした文句や豪華俳優陣、スキャンダラスな製作過程・・・あまりに不幸な状況である。これこそ、まるでギリアム自身の作り出す世界のような寒々しくて、薄っぺらで、静寂に満ちた滑稽な状況である。
もう一つ不幸なことがある。もしかしたらギリアムは映画そのものよりも目の前の状況にこだわってしまったのかもしれない。つまりヒースの映像を生かそう生かそうとするあまり映画としてはヒースを殺してしまっているように思えるのだ。そして映画そのものもそちらに引っ張られてしまい、結果、全体のバランスを欠いてしまったのだろうか。悪く言ってしまえば、遺されたものを映画のためにばっさりと切り捨てることが出来なかった、という風に見えてしまう。もしもヒースが生きていたら・・・というのは反則だけれども、ヒース・レジャーが一人でやりきった映画を見てみたかったと思うのは無い物ねだりだろうか。それはどうしてもヒースの演技が見たかった、という意味では当然なくて、あるはずだった映画、無事にできあがるはずだった『The Imaginarium of Doctor parnassus』という映画を見たかったということだ。だから、これがヒース・レジャーという希有な俳優が最後に出演したアレね、というような言われ方をされないことを祈る。ただし、ヒースの演技は風格のある素晴らしいものだったことは保証したい。

怪しげな興行をうっているが見向きもされない馬車の一行が、ある一人の吊るされた男と出会う。悪魔との契約で娘を引き渡す前に5人の人間を鏡の世界に導かなくてはならない。一行は吊るされた男の尽力で賭けに勝ちそうに見えたが、実は男には秘密があった・・・
・・・みたいなチラシにあるようなストーリーそのままでいいから、あとは別世界の鏡の中の世界をナンセンスさを切って貼ってつなげるだけで傑作になったのではないか(うだうだとああでもない、こうでもない、と痴話げんかめいた場面を延々と見せられるのは流石に辟易した)。
『バロン』がまさにそういう映画だったと思う。意味がありそうでほとんど無い世界をいくつも貼付けてつなげて、そしてそれらが舞台を通じて現実と虚構のはざまを行き来する。それこそ「想像力の復権」を押し付けることなく軽々と体現している映画だった。
大体、「想像力」が「復権」を唱えることくらい胡散臭いことはない。想像力なんて所詮、個々人の持つものでしかない。他人の想像力を無批判に受け入れることが、どれほど悲惨な事態を引き起こしてきたのかは例を挙げるまでもないだろう。多かれ少なかれ世界は想像力の覇権争いで成り立っている。これが私の世界だ、というヒースの台詞も象徴的だ。そう宣言する時の彼はまさに想像力によって娘を征服しようとしていたではないか。それが諸刃の剣だということもギリアムは重々承知だ。ヒースの世界に従えば、地位と名誉と財産が手に入る。なんという分かりやすい教訓。それに従わなかった娘は最終的に自身の想像世界を選択する。それとてインテリアのカタログの中のもの、小市民的なこじんまりとした幸せな家庭でしかないが、彼女はこれに満足しているようだ。しかしこれは「自分の想像力を自分で選んだ」だけのあくまで想定の範囲内での満足であり、いくばくかの皮肉も感じられる。この結末は一見ハッピーエンドに見えるが、とてつもなく絶望的にも思える。
娘が小さいながらも幸福な家庭を手に入れることや、パルナサス博士の舞台興行が最終的に(莫迦みたいに笑える)紙芝居になってしまうことは、個々人のもつ想像力が時代とともに卑小に幼稚に貧相になっていく、という風に解釈するべきものなのだろうか。想像力は紙芝居で表現するくらいの些細なものでしかない、と?あるいは、これは結局縛り首になる男が死の直前に見た夢の話だったのかもしれない。もしかしたら想像力というやつは、それくらいのものにしておいた方が良いのだろうか。マッチ売りの少女のように悲惨な現実を隠蔽するためのささやかな愉しみとして?まさか。だとしたら『バロン』よりも縮小しているよ。博士と悪魔のように不毛な砂漠で馴れ合って茶飲み話をしている場合じゃない。その先へ進もうとするのが想像力の復権じゃないの。

冒頭のパルナサスの馬車が変化して舞台が現れてくる場面は悶絶。あの下から見上げているような構図ね。あれだけで満足した。舞台の構成というか配置は完璧。素晴らしい。ただの動きのない画面なんだけど、あれこそ想像力を刺激する。馬車の中は居心地がよさそう。二階建てバスみたい。あれならずっと旅をしながら住んでもいい。
逆に鏡の中の世界は、最初の書割りの森などはよかったけど、総天然色の背景は格別に独特というわけではない。気球とかはしごとか手作り感のあるものはチープに扱われてて好ましい。ポリスマンのダンスはくだらなさすぎて笑えた。あれが風刺のつもりなら笑えないけど。
ギリアム映画にしては珍しく導入が親切すぎてかえって気持ち悪い。あんなに世界の設定説明に終始しているとは思わなかった。と思うと、終盤はやや突っ走りすぎ暴走ぎみだし。全体のバランスはあまり良くない。鏡の世界で顔が変わるのはやっぱりどう考えてもこじつけ。とってつけた部分が見えすぎてしまう。そのせいか、場面場面のつながりも切って貼って、が目に付いたように思う。
なんて言い始めると色々あるのだけど、この映画は、もうこっち方面には来ないのかと思っていた私にとっては嬉しい復活だった。準備中のドン・キホーテ物ではさらに突き抜けて欲しいと願う。ドン・キホーテ役も決まったという噂だしね。結局わくわく期待してしまうというのは・・・これがつまり義務とか納税ってことなのだろうか。
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