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シングルモルトのロールスロイスとは [酒]

ウィスキーの語源はゲール語で「生命の水」を意味するウシュク・ベーハー。
ウィスキーの起源はアイルランドかスコットランドかでいまだに論争中である(文献上はアイルランドのが最古らしい)。
ウィスキーは蒸留酒である。発芽した大麦を煮て甘い麦汁をつくり、それが発酵してから蒸溜する。
蒸溜技術は錬金術から発達したといわれるが、もともとはそれ以前3〜4世紀ころからあった技術だという。
蒸留したアルコールを冷却して、蒸留酒ができる。ジンやラム、ウォトカ、ブランデーも原材料が違うだけで、基本は同じらしい。
ウィスキーも最初は農家で自家製造をしており、自分達で楽しむ分だけ作っていたのだろう。
そしてそれを大量に密造して商売をする者も現れただろう。税吏との闘争の開始である。
スコットランドのハイランドは英国からみれば僻地もいいところで、税吏がなかなか追いかけられない場所であった。したがって密造者たちはどんどん奥地へ入っていく。しかも、そこは気候も水も酒造りにはうってつけの地だったのだ。
追手が来ては逃げていく。妻が税吏たちの接待をしているうちに裏口から逃げ出す男たち(イメージです)。
作った酒は持って逃げられないから隠して置いておく。
さらにウィスキーとばれないように、合法的だった輸入シェリー酒(スペインはアンダルシア地方特産のワインです)の樽の中につめてごまかしていた。あれやこれやで放置された樽の中のウィスキー。
オークの木から作られた樽の中で、長期間の熟成がされたその液体には、樽からしみ出た成分が溶け込み、より豊潤な香り、味わい、そしてあの琥珀色をウィスキーに加えていたのだった。
これが今でいう所のウィスキーの誕生といえるかもしれない。偶然だったのか意図的だったのか。
後世には美味しい酒だけが残った。

さて、仮に「本来のウィスキー」というものがあるとしたら、どの時点での話になるだろうか。
上記の簡略な歴史からいけば究極的には、蒸溜しただけの状態まで戻ってしまうのが「本来」なのかもしれない。
あるいは樽熟成をしたことで完成したと考えれば、その酒が「本来」なのかもしれない。
しかし、酒造りをしている職人に訊けば「本来」というものはナンセンスなのだろう。
スコットランドの職人はおそらく「本来も何も俺んとこのウィスキーが最高だ」というに違いない。
あるいは日本の職人は「これから理想のウィスキーを作るために日々研究をしている」と答える気がする。
過去に「そうあるべき姿」を求めるのか、未来に求めるのか。
これまでのやり方を一つも変えずに「これまでもこうやってきたし、これからもこうする」というのもうなずける。
より良いやり方を模索しながら「きっともっと素晴らしいものがつくれるはずだ」というのもうなずける。
他人がいう「本来の」という言葉には魔力がある。
けれども、僕らはしばしば「本来の」を求めてしまうのだ。無数の本来。それって本当なのか?

と、いうことを念頭において以下の文を綴るのでしばしお付き合いを。

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『虐殺器官』伊藤計劃 [小説]

円城塔さんの本と一緒に買おうと思ったら、これしかなかったので、とりあえずこちらだけ。こちらはまず芥川賞候補にはならないでしょう、いろんな意味で。
さてさて。著者は私とほぼ同年代。読んでいて思考傾向が似ていると感じたのはそのせいでしょうか(全部とはいいませぬ)。
また細かい部分で登場する文学者、画家、映画監督などがいちいち心の琴線に響きます。カフカ、ボッシュ、テリー・ギリアム・・・。モンティ・パイソンネタは面白かったけど(まさかの時のスペイン宗教裁判とかシリーウォークのたたみかけはうけた)、あんな風に帯に書くほどではなかったです。
加えて言語学(チョムスキー)、ナチスやスターリニズムが駆使した民衆への広報活動(プロパガンダ)、個体認証(社会にとって個人を確定することとは何なのか)、などなど自分がこれまで興味を持って接してきた知識を総動員させられ、対峙させられた読書となりました。
私に抜けていたのは軍事関係、国際情勢、歴史認識でした。まあ、日々ニュースを見ているくらいの知識があれば難しい話ではありません。アメリカの現状、社会の閉塞状態、戦争と平和についても考察があります。
詳細にわたる現代への認識があって、そのうえでもう一歩進んだ社会を地続きにつくりあげた労作だと思います。

虐殺器官

虐殺器官

  • 作者: 伊藤 計劃
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2007/06
  • メディア: 単行本


(以下、一部ねたばれしています注意)

アメリカの特殊工作隊員として老若男女を問わず殺戮の限りを尽くしてきた「ぼく」(シェパード)は、母親の死をめぐる一連の選択によって「生と死」についてそれまでの認識がぐらつき始めます。そんな折、作戦の中でターゲットとして名前はあがるものの、何度も取り逃がすジョン・ポールなる人物が、紛争国での虐殺に深く関わっていることをつきとめるのでした。
ジョン・ポールは自ら手を下すことはしません。人間が本質的・遺伝的に持つ「虐殺へと志向させる」言語の文法を垂れ流すだけ。
まさかそんな漫画みたいな、と思う方でも、現在の日本でも毎日垂れ流されるテレビ報道や新聞の見出し等に「何かへと促す感触」や「ある倫理観を前提とした断言」や「読者の日常とはかけ離れた大仰な物言い」などを感じたことがあるかと思います。あそこに感じられる嫌悪感すら操作されているのでは、と思わされる瞬間もあります。一番わかりやすいのは戦時中のプロパガンダ研究でしょうか。その効果が本当かどうかはわかりませんが、こういう言辞が弄される時点で時勢が戻せないということはあるかもしれません。もっといえばその効果は、われわれ民衆とは全く関係ないところで始まり、目に触れた時点ですでに決定済み事項となっているために、まるで影響をおよぼすことがないといっても過言ではないと思います。だから戦時中に「お上はああいっていたが、庶民感覚はそうじゃなかった」などというのは本当のことだと思いますが、だからといって庶民が社会状況を変える可能性があることとイコールではないのです。
だから物語中、その虐殺文法はその国の支配層に影響を及ぼします。しかも彼らはなぜ自分達がそんなことをしでかしたのかまったく無自覚です。(それって、サブリミナル効果と一緒?あの有名な映画館のサブリミナル効果は嘘っぱちに近いらしいですが、理屈は同じかも)
「ぼく」はジョン・ポールを追う過程で彼の愛人ルツィアと出逢い、対話を通じて(実際は彼女のまなざしに代表される外見、雰囲気、たたずまいに多くを負っているかもしれませんが)過去の自分の仕事つまり正義の名の下に行った殺戮、多くの人間を救うために多少の犠牲を払うことはやむを得ないという考えにもとづいた皆殺しについて悔悟の念に襲われます。そしてこの殺戮に付随していた事前のカウンセリングや医療的な処置について疑問を抱き始めるのです。すなわち、殺したことに対する罪悪感がゼロにさせられていることはその責任を負わないということであった、と。だからこそ徹底した特殊工作員として暗殺に携わることができたし、たまたま作戦上に現れただけの罪のない人々を始末してもアメリカという国がその責任を肩代わりしてくれると思っていたのです。
しかし、ジョンはそのアメリカに守られ、またアメリカを守ることで自分の大切なものをこれ以上失わないように誓った男でありました。「ぼく」もまたアメリカに守られてはいたが、アメリカによって大切なものを奪われてしまったのです。自分を赦してくれるかもしれない存在、母親あるいはルツィアを。
その時「ぼく」は死んだジョンとまったく同じことを、まったく違う場所で行うことで、不平等だった責任の所在を反転させるのです。その結末は意外性こそありませんが、ずっしり重いものです。これが日本人によって書かれたということも含めて。

最後にひとこと。
「ぼく」は30才。20代のころからこの過酷な任務(しかも選抜)を続けており、大きな失敗もしてなさそうなのに、独白はどこか軍人ぽくない。あえてそれを選択しているのかもしれないが、この性格ではもっと早い時期に精神が弱ってしまうのではないか、とふと感じました。もちろんマチズモな軍人とは一線を画しているのは書いてあるし、父の不在にまつわるエピソードからすると、この人格形成はありかもしれませんが。そして母の死がやはりそこに影を落としているのでしょう(こうやって考えると納得するんだけど、読んでいるとたまに不思議に感じる箇所もある)。

もうひとこと。
この小説の白眉は第4章の列車での戦闘でした。ここ、大好きだなあ。容赦のなさが。

ところで。
モンティ・パイソンのフライングサーカスは今みると古臭いスケッチが多いですが、その中でも残虐なネタはいまだその力を失っていません。またはラトルズに代表される諧謔的な笑いと、そこから漂うスノッブ臭はいまだ健在です。ラトルズの音楽は本家本元がその輝きを保っているのと同様に変わらず光っています。

ちなみに。
テリー・ギリアムが自分のオフィスで使うメモ用紙は、ボッシュの絵が入っているものだそうです。


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『マリエニスム芸術論』若桑みどり [美術]

若桑みどりさんの講義は、それはエネルギッシュで斬新で問題意識にあふれていて、聴き終えた後は意味もなく興奮していたことなどを思い出します。

ある時、講義が終わった後に質問をしに行きました。質問と言うか、その日の内容が明治時代の画家、小山正太郎についてだったので同郷の私としては一言お話したかったのでした。
(余談ですがこの小山正太郎という画家については日本の西洋画史には必ず登場するくらいのビッグネームですが、地元での知名度は今ひとつ。調べようと思っても参考になるのは司馬遼太郎の『峠』くらいでした、当時。あと「お山」の資料館には自画像があったはず)

帰りかけの背中に声をかけて、
「あの、小山正太郎のことなんですが・・・」
「あなた子孫?」
「いえ、同郷なだけなんですけど・・・」
「あ、そう」
そこでもう委縮して退散したんですけど。・・・懐かしい?思い出です。

そんな氏の専門である芸術様式のひとつであるマニエリスムについての論文集がこれです。

マニエリスム芸術論

マニエリスム芸術論

  • 作者: 若桑 みどり
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/12
  • メディア: 文庫

ずっと昔に買ってあったものの読む機会を逸していたのですが、このたびようやく読了しました。
で。
とにかくミケランジェロ、ですね。すっかりミケランジェロの彫刻に魅せられました、ワタシ。
名前もミカエルとアンジェロという天使の名前の組み合わせだというのを初めて知りました。その趣味的な感じがたまりません。
みなさん、ダビンチダビンチいってるけど、次はミケランですよ!!(ミシュランかっ)

ものすごく極論で言いますと、マニエリスムとはミケランジェロを頂点とした盛期ルネッサンスを築いた大家たちの技法・手法(マニエラ)を用いて、たんに自然を忠実に写しただけではなく、それをいかに美しく見えるように描くかということを極めようとしたということ(らしい)です。
炎のように、蛇のように、ねじれ、立ちのぼるような肢体を描くのがポイントのようです。

ポントルモ、 ロッソ・フィオレンティーノ、コレッジョ、パルミジャニーノ、アルチンボルド、エル・グレコといった画家たちが代表的だそうです。(すみません、アルチンボルドしかパッと絵が浮かびません・・・)

昔、思いきって買ったピナコテーカ・トレヴィルシリーズの画集(古書店で全巻セット1万円以下だった)のうち『マニエリスム』と『北方マニエリスム』を副読本にすると、あらふしぎ、この本に載っている絵がかなりの確率で掲載されているではありませんか!これは嬉しい。

ともあれ、この本を読むとマニエリスムの絵についての深い考察と隠された象徴などを知ることが出来ます。ただ、マニエリスムとは一体なんだったのかは章によって焦点が異なるので少々つかみづらかったです。別の本も読むか。ハウザーとかホッケとか。パノフスキーとか。

あとは『クアトロ・ラガツィ』もいいかげん読まねば。


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「サバイバル登山家」服部文祥   [本]

サバイバル登山家

サバイバル登山家

  • 作者: 服部 文祥
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 単行本

こんな本を読みました。
山と真摯に向き合うためには最新技術の装備を背負わずに、最低限の所持品と身ひとつでサバイバルするほかない・・・そんな考えのもと、服部氏は長期間の山行を行うのです。
それは山もしくは自然とフェアに対峙するための方法であるといいます。

正直云って、こういうことは考えついても実行しないのが関の山なのですが、彼は実行してしまう。
それは確固たる信念のもと、といいたいが、実は本人は結構小心者であり(と自分で云っている)、いつも迷っています。他人の声に影響を受けやすい己を良く知っているのです。

山に入るために1ヶ月の休暇を取る時に会社から契約を切られそうになって「家族と相談させて欲しい」などと云ってしまう。
山中でようやくつながった携帯電話で、妻と長く話すと心が揺れ動くから、といってすぐに切ってしまう。
山の中では貴重な食糧を、出会った登山家たちから分けてもらえないだろうか、と逡巡する。話を切り出して冷笑されたりする。

あえてみっともない姿をさらけだしているようにも見えます。一種のポーズにも。
しかし、これは私自身の姿でもあるのです。
登山家が皆、超人や聖人であるわけではないのです。契約を切られたら職を失って家族もろとも路頭に迷うのは目に見えるのですから、相談させてくれ、というのは何ら恥ずかしいことではないはずです。それに対して「そこまでの覚悟の登山ではないのか」なんていう会社の上司の感覚のほうが、本当はおかしなことなのではないでしょうか。(登山にまつわる理想主義的な臭いはこういうところから匂ってくるように思います)
心の迷いは誰もがもっており、それを隠したり、何かでごまかしたりはできるけれども、消し去る事はできないのではないでしょうか。

都市に生きている人間を筆者は「お客さん」であると断じます。確かに自分の力で生きる部分がほとんどありません。仕事を持って、その仕事を全うするのに力を注ぐことはあるにせよ、衣食住の部分ではゼロ、といってもいいほど他人に生かされているからです。そういう意味では私自身も「お客さん」です。
強くなりたい、と筆者は書きます。お客さんではなく、自分の力で生きる能力を高めたいと。そのためのサバイバルなのだと。

会社の上司に説明しようとして、説明できないシーンに私は心を打たれます。
とてつもなく深いズレを感じてしまい、いくら説明しようとも、彼は彼の価値観でしかその説明を受け入れる事ができない。そのことを説明する前にわかってしまったという悲劇。

胸の内を開けば開くほど、伝えたい事からはどんどん遠ざかってしまうこと。
だから黙って自分のうちだけで計画を立て、実行してしまう。

己の中に抱いてしまった疑念や欲望は、自分自身の行為の結果でしか解消したり昇華させたりできないものなのでしょうか。
いや、他人に影響を受け過ぎてしまうということの反対には、自分自身への疑いがあるはずです。むしろ、他者とは関係ない山(自然)で自己と向き合う事、理不尽でも絶対的な自然という存在に翻弄されることを望んでいるように思いました。

とりとめもなくこんなことを考えた本でした。


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松本剛『甘い水』 [漫画]

甘い水  上

甘い水 上

  • 作者: 松本 剛
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/02/02
  • メディア: 単行本


甘い水  下

甘い水 下

  • 作者: 松本 剛
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/02/02
  • メディア: 単行本


漫画家の松本剛さんの最新長編です。
別冊ヤンマガで連載されていました。(私、毎月かかさず読んでました。)

北海道の道東の一都市を舞台に、一人の少年と少女の出会いを描いた少し哀しい美しい物語です。
冒頭から、久しぶりの実家で見つけた一枚の写真から回想するシーンから始まります。
この物語は男の回想をなぞるような構造となります。それがこの長編のミソであり、結末への伏線ともなるのです。

内容は各自読んでいただくとして・・・。
「回想」ということは、この物語はすでに終わったことを十年後にあらためて思い出している(読者にとっては初めて体験する)記憶ということです。
男にとってはあまり思い出したくない記憶だったのかもしれません。しかし、長い年月が過ぎたあとに一枚の写真から鮮明によみがえった記憶に、男はその少年の時には気づかなかった(気づけなかった)真実を見いだして、心が揺れ動いているはずなのです。そのことに気づいた時に私はけっこうがくぜんとしてしまいました。ここには無数の読み方があったのです。
しかし、男の現在のことやそれからのことは全く描かれません。もどかしいくらいに。巧妙すぎます。物語に描かれない余白が『甘い水』には大きすぎるのです。

少年=男にとっては回想によってわかった真実と、少年だった時の感情とが二重に浮かび上がって来たはずです。とくに最後のシーンに。

それはこの漫画の世界の物語にかぎらず、私たちが生きて行く中で、昔の記憶と向き合う時に必ず直面する事態です。(あ、なんかかたい話になってしまった)

結末は余韻が残ってしまって、物足りないと感じる人もいるかもしれません。私は、物足りないというか、その後が気になって気になって2、3日は彼らの行く末を案じてしまい、日常生活がうまく送れないほどでした。(だから石田敦子さんのコメントが痛いほどわかります。ちなみに私、『アニメがお仕事!』大好きです。)

ところが単行本が出た時にまったく関係ない短編の「二十歳の水母」が巻末に併録されていて、それを続けて読んだ時に、とても癒された気持ちになったのです。(ふだん癒しとかいわないくせに。)
この松本剛さんの全短編のなかでも屈指の名編である「二十歳の水母」は、ヤンマガ創刊20周年記念書き下ろしというふれこみで雑誌に掲載されました(これも雑誌で読んだ)。その時は20周年という歴史をひとりの女性の成長史と重ねあわせたユニークな漫画だと思っただけでした。

しかし、『甘い水』のあとにこの短編を読むと、じつはこれは『甘い水』に対するアンサーストーリーであるという思いにいたったのでした。『甘い水』は個人の記憶の内側の物語でした。
「二十歳の水母」は主人公である二十歳の女性の記憶を外側から描いているのです。
さらにいえば、女性にとってわかっていたつもりの父親を、二十歳になって回想を通して何もわかっていなかったのだ、とはじめて気づく最後のあのシーン。
これは失われた過去を全部失う前に抱きしめることができた感動的な場面です。

『甘い水』は、失われた過去をその手には(たぶん)取り戻すことができない、という喪失感が大きな主題(もちろんその対極には甘い水の美しいシーンがあるのですが)となっていたので、その喪失感が「二十歳の水母」ですくわれたのでした。

と、これらは私の勝手な読み方なので責任はとりませんが、今回、講談社BOXで新装版として出た時も同じ構成だったので、出版する側も似たような意図があるような気がします。

ああ、感想を書いていても心が痛む。なんて切ない漫画を描いてくれたのですか!
また描いて下さい!!

ちなみに私のお気に入りの場面は、水門の見開きです。北海道に有名な水門があった気がします。全然関係ないですが、友部正人さんの歌でその名も『水門』という素晴らしくゆったりした歌があって好きなのですが、それを思い出しました。

ではでは。


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松本剛『すみれの花咲く頃』 [漫画]

すみれの花咲く頃

すみれの花咲く頃

  • 作者: 松本 剛
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


漫画家の松本剛(まつもとつよし)さんの初期短編集『すみれの花咲く頃』です。
4月1日にNHKで同名ドラマが放映されるそうです。(内容はかなり異なるようですが、見なくては!)

この『すみれの花咲く頃』は、もともとヤングマガジンに連載された5話の物語です。
宝塚にあこがれる高校生の少女と、その秘密を知った(?)同級の少年の葛藤、交流をなにげない日々の情景のなかに描き出した傑作です。

なにせ、無駄なコマがひとつもありません。
しかも、一見すると無駄なコマがあるようなのです。
これってすごいでしょ。
だから、何度も何度も読み返すとたくさんの発見があります。

その他に同時収録された短編も素晴らしいものばかりです。
今回、初めて読んだ「泣かない渚」と「すこし、ときどき」も絶品でした。

松本剛さんの漫画は「あ、あった、こういう気持ち。」という感情を、ほんっとーにうまくすくいとっているのです。

気まずい思い。
わかっているんだけどおさえられない気持ち。
言ってはいけないことを思わず言ってしまったこと。
心にひっかかっている思い。
などなど。

それから、かっこわるい男の子とかわいい女の子!
主人公はたいていかっこわるい男の子で、いきがったりかっこつけたりします。でもまっすぐな気持ちを持っています。
この男の子と出会う女の子は、本当にかわいい。かわいいというのはアイドル的に可愛らしいのではなく、十代のころにクラスにいたような、大人ではないけれど魅力的な(ああうまく書けない)女の子。

「あ、いた、こういうヤロー」とか「あ、いたいたこんな子」。

(感想になっていませんね。)

で、綺麗なことばかりじゃなくて、わい雑なことも平等に描くのが松本剛さんの漫画の魅力です。
いやむしろこっちのほうを得意としているのではないかと思うくらい。
とにかくそのバランスが絶妙です。見えるものを平たんに描くのではなく、きれいなものと汚いものとを混ぜたり、分けたり・・・いや、そうじゃないですね、たぶんきれいなものも汚いものも紙一重なんですね。
松本さんの手にかかると、それが一瞬にして表になったり裏になったりするんです。

だから、松本剛さんの漫画は、ほかの漫画にあるような「これをしたい、手に入れたい、こうなったらいいな・・・(いろいろあって)・・・できた!、手に入れた!、夢がかなった!」という展開には決してなりません(けなしていないですよ、念のため)。
そうではなくて「いろいろある人々がこんがらがって、ほどけなくなった感情の糸が、ほんの少しとけた」というような物語が多いように思います。

それから安定した優しい絵柄、コマ割り、という印象がありますが、実はけっこう表現的に冒険したり実験的なことを試みている気がします。それを表立ってやらないところがまたにくい!

そろそろ新作・・・楽しみにしています!!


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『前世への冒険』 森下典子 [小説]


まず。

題名で判断してしまってはもったいないです。
騙されたと思って、1ページだけでも読んでみて下さい。
先入観を捨てて・・・

前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って

前世への冒険 ルネサンスの天才彫刻家を追って

  • 作者: 森下 典子
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2006/09/05
  • メディア: 文庫

などと紋切り型のお誘いをかけたところで、結局、読む人は読むし、読まない人は読まない。
それはわかっています。(勧誘ってむつかしいね)

ぜひ、この一冊の文庫を読んでみて下さい。
これはいわゆる精神世界ものではないですし、オカルトでもない。(いや、どちらも馬鹿にしてませんよっ)
ドキュメンタリー、事実です。本当にあったこと。(という自明のことをすでに前提にせざるをえないのも事実)

じゃあ、こんな感じでどうでしょう。

もしもあなたが、ある時、前世が見えるという人に「あなたの前世は鑑真和正の弟子のひとりです」と言われたとしたら、どう反応するでしょうか。
私なら、ふうんそうなんだ、といって一見信じた振りをしてその実まったく信じていない、けれども何かの話のネタには使えるから覚えておこう、なんてそんな風に受け流してしまいそうです。
著者の森下さんも、そういうスタンスでした。そもそも雑誌の企画で「著者の前世をネタに記事を書いて欲しい」という話に乗ったのですから、もう確信犯的です。この時点でまったく信じていません。興味本位です。
そして、鑑真の弟子だけでは記事が埋まらないから(!)という理由で、いくつかある前世のうち、別のも教えてもらおうと思いつきます。しかも相手がネタを仕込む時間を与えまいとして、夜中に電話して次の早朝に会いに行くという周到さです。
これはかなりいじわるですね。いや、それだけ真剣ということか。戯言を信じて馬鹿にされたくない。わかります。
そして口から出たのは、あなたの前世はイタリアのルネサンス時代の彫刻家で、しかも夭折した美少年で時代の寵児だった、ということ。生まれた場所はどこそこで、こう育って、職を得て、作品を残し、そして死んだと。
その人物、デジデリオという彫刻家はルネサンスの美術を詳細に調べると、日本の本にも名前ぐらいは結構出てくる人物だそうです。
しかし、本に書かれている出生地とはくい違っているし、「作品を見たければここに行け」といわれた作品は他人の作品として後世に残っている。重要なのは、プロのライターである著者が何週間もかけて調べてわかったことを、その人は一瞬にしてメモに書き留めたこと。
調べるうちに本の内容は所詮、あいまいなことはあいまいなままにしか書けないということがわかってくる。
しかし、その人の言っていることは具体的で真実味を帯びてくる・・・

このままいくと全部書いてしまうので、ここまでにしますが(笑)。
面白いのは、前世がわかることではなくて、語られた前世が500年後の現実をゆるがしていくことです。

人が一般にうさんくさいと思われる領域に踏み込んで、その領域を常識の方に近付けようとして引っぱってくる、あるいは常識の方を引っぱろうとする。ここに立ちはだかるのは冒頭に書いたような紋切り型とそれに対する抵抗感、無力感です。

私はよく妻に「この本、絶対面白いから読んだ方がいいよ!」と力説されるのですが、そうはいっても自分に興味がわかないものはなかなか手が出ません(いや、妻の推薦はあまりはずれないので信用していますが)。読んだ人にはわかっているのです。それがどれほど面白い物なのかを。そして、読んでいない人にはわからないのです、読まないかぎりは永遠に。
さて、ではたまには私の方から「この本絶対面白いから読んだ方がいいよ!」といいましょうか。

はい、この本は本当に面白いです。
嘘だと思ったらアマゾンの評でも見て下さい。(結局、他人頼みかい)


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ジョアン・ジルベルト 『最後の奇跡』  2006.11.8 [音楽]

ジョアン・ジルベルトの3回目の来日公演に行って来ました。私自身にとっては2004年に続いて、2度目のライブ。
少し感傷的な文体で書くのでご笑覧ください。

※ ※ ※

この会場を占める静謐な空気はジョアンだけがかもし出しているのではない。
またオーディエンスだけが頑張ってつくり出しているわけではない。
両者がともにつくりあげているのだ。
だから、このライブが終わった瞬間にジョアンと一緒にやり遂げた、という誇らしい気分になるのだ。

眠る女性、遠くで咳込む人、リズムを取って椅子を揺らす一つとなりのおじさん・・・正直云って僕をいらいらさせる。
でも、そんないらいらも時が進むにつれて、いとおしさすら感じさせる。ぼくのいらいらもこのライブの空気の一部となり、観客と共有し、ジョアンと共有するのだ、きっと。
ジョアンも自分の演奏、唄、演出や観客の態度などに満足したり、うっとりしたり、ときにはいらいらするかもしれないのだから。

すぐ後ろで講釈を垂れていた若者。「巨匠はみんな死んでしまった、あとはジョアンだけだ」なんていってたけど、ジョアンが「三月の水」を唄い始めたら、無邪気に拍手喝采、惜しみない賛辞を叫ぶ。僕の代弁者だ。嬉しい。

斜め前で眠りこけているお嬢さん、あなた、その席がいくらすると思っているの?そんな良い席で音も抜群、なのになんで眠ってしまったの、仕事が大変だったの、などと憤慨しそうになる。でもジョアンの「声とギター」を子守唄に眠れるなんてやっぱり世界中で今ここだけの贅沢だよ。

曲間で出入りする人たちもたくさんいて、決定的な物音をたてずに席に着けるかどうか、そんなことばかり気になってしまったけど、そんな人たちもきっとよんどころない事情があったのだろうなあと、ふと思い直す。

目覚めた女の子、君はとてもラッキーだ。ジョアンの声は君が眠りにつく前よりいっそうつややかだし、ギターだって星のように鳴り響く。良い時間に起きたね。

途中から、ぼくの頭のてっぺんから足のつま先までぴんとつらぬいている「芯」のようなものがじわんと痺れてきて、今日の昼間あったつまらない出来事や、明日以降フォローしなくてはならない問題が浮かんでは消え浮かんでは消えていたけど、その「じわん」が頭の中心へ染み込んでいって離れないので、もうずっとこの時間が続けば良いのにって思った。

「想いあふれて」を唄い出した時に、ぼくは、まだ早い、お願いだからもう一曲だけ唄ってジョアン、と焦った。焦りながらぼくはジョアンと一緒にくちずさんで唄った。
終わってしまうことがこんなにおそろしいことだとは!
が、ジョアンは唄い終わってからまだギターを手放さなかった。ところが、始まったのは「ヂサフィナード」。ぼくは再び思った、お願いだからもう一曲だけ、と。
そして次は「コルコヴァード」だった。もう終わる、でもこの曲では終わらないだろうな・・・と思ったとたん始まったのが「イパネマの娘」だった。

「イパネマの娘」!

2004年の公演では聴けなくて、心残りだった曲。ぼくがジョアンの歌を初めて聴いたのもこの曲だった。
だから、この曲で終わりだろうな、と思ったらやっぱり唄い終わったジョアンはギターを手に去って行った。最後におじぎを3回して、去って行った。

ぼく達はやり遂げた、ジョアン。


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小村雪岱『日本橋檜物町』 [小説]

日本橋檜物町

日本橋檜物町

  • 作者: 小村 雪岱
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2006/09/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

先日お伝えした小村雪岱の随筆集『日本橋檜物町』が平凡社ライブラリーから出版されました。
表題の随筆を始め、泉鏡花先生について、舞台装置について、映画の考証について清楚な文章で書かれたものです。人柄が偲ばれます。
最後の仕事が泉鏡花の『白鷺』の映画の考証だったようです。(この映画、見てみたい!)

ちなみに久保田万太郎が雪岱への追悼文でやけぎみに死去当日の話(本当かどうか定かではないが、その日の映画の仕事が終わったあとに「一杯どうです」と若い者を誘ったが断られたのでまっすぐ家に帰ったという話)を書いて、そこで未練がましくも「もしこの時、若者が一緒に飲みに行っていたら・・・」などと云っているが、これはあまりに感情的に過ぎます。若者に非は無いが、と断りを入れているものの、公の文章でこんなことを書かれたらその本人はいたたまれないと思います。まあ、それだけ久保田の悲しみが深かったということかもしれませんが。私はその若者に同情します。

ともあれ、この随筆集は小村雪岱の文才という面でのエッセンスを一望するには最適のものでしょう。芸術論という面では、舞台装置に対する考え方が素晴らしい内容でした。あくまで背景は背景であり、登場人物を押しのけて主張するようなものでは失敗だというのです。当たり前と云えば当たり前のことですが、実際には人間と背景とを調和させることはかなり困難です。例えば服の色調、小物の大きさ、様々な要素を最大限に引き立てる背景こそが良い背景であるという考えはありきたりのようでいて、深いのです。

雪岱の仕事に関しては、装釘、舞台装置の下絵、小説の挿絵など、現在私たちが見られる作品はごく限られています。その全貌が見られる機会は果たして今後あるのでしょうか?埼玉県にはぜひ「小村雪岱記念館」でもつくってもらいたいところです。


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『小村雪岱』星川清司 [小説]

厳密にいえば小説ではないのですが、この評伝めいた本は一人の絵描きの生涯を印象的に描きます。
しかもこの小村雪岱という人間の資料がわずかなため、彼の周囲にいた人物の遺した文章をもとに浮かび上がらせているのです。やむを得ない事情のゆえですが、これがむしろ良い方へ転がっているのです。

小村雪岱とは何者なのか。
たいがいの人はそう思うでしょう。画壇にいた人物ではありませんでした。むしろ舞台美術の分野で名を残したといえるかもしれません。あるいは挿絵画家として。

小村雪岱は明治20年に埼玉県は川越に生まれました。東京美術学校の日本画科で学び、その後、泉鏡花の知遇を得て、本の装丁や新聞小説の挿絵、舞台美術、映画美術考証まで活躍の場を広げた絵描きでした。
鏡花との出会いは決定的なもので、以後ふたりは生涯の連れ合いのような近い関係であったようです。(今、書店にあるちくま文庫版『泉鏡花作品集成』の表紙はすべて小村雪岱のものです。)

私が初めて小村雪岱を知ったのは5、6年前でしょうか。埼玉県立近代美術館のそばに住んでいた頃です。絵葉書の一葉に彼の『青柳』という作品があり、その静謐な雰囲気に一息で飲み込まれてしまい、それ以来のファンなのでした。

しかし彼の画集などはほとんど無く、私の手元にあるのは近代美術館が出しているもの(他の作家と合わさったもの)と、デザインエクスチェンジ株式会社というところが出したArT RANDOMCLASSICSというものしかありません。(先に云った文庫を揃えるほかないのでしょうか)

そして、ふと図書館で目にしたのがこの星川清司氏の書いた『小村雪岱』だったのです。迷わず借りてきました。絶版です。

小村雪岱

小村雪岱

  • 作者: 星川 清司
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1996/01
  • メディア: 単行本

小村雪岱の周囲の人物、泉鏡花をはじめ久保田万太郎や里見とん(弓へんに享 )などが生きた東京の世相や風俗を感傷的に陥らずにすっきりと描いています。(この星川清司氏は映画の脚本家から作家になった人らしいです。)

鏡花は雪岱の名付け親でもあり、所帯を持たせる世話もしたりするほどの仲でした。神経質で繊細で潔癖性と喧伝される鏡花の良き世話女房役でもあったといいます。
鏡花の潔癖性については、熱燗をぐつぐつ沸騰するまで飲まなかったという話ばかり聞きますが、それも酔いが回るまでの話で、いったん酔ってしまうと生ものも平気で食べたようです。それで翌日になって雪岱が「昨夕は蛸を召し上がりましたね」などと云うと気分が悪くなってあわてて家に帰ったという記述があり、大変微笑ましいと思いました。

雪岱は鏡花の死(昭和14年)の一年後に突然死してしまいます。
新聞小説でコンビを組んでいた邦枝完二は雪岱の死後、小説を書くことが出来なくなるくらいの衝撃を受けたらしいのです。当時の新聞小説においてはそれくらい挿絵の重きが置かれていたということでしょうか。

この世間ではすっかり忘れられてしまった小村雪岱をなんとか蘇らせることはできないでしょうか?
などと考えていたら、なんと来月(平成18年9月)に平凡社から小村雪岱の随筆集『日本橋檜物町』が出版されるそうではないですか!これは1996年に中公文庫で出たものの絶版だったのです。
久しぶりに、う、うれしい・・・。

日本橋檜物町

日本橋檜物町

  • 作者: 小村 雪岱
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2006/09/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

そういうわけで、これを読んで下さったみなさん、小村雪岱をお互いに盛上げて行きましょうね。


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